[群馬高崎]居酒屋「馬車屋」
[群馬高崎]居酒屋「馬車屋」
「馬車屋」のおにぎり
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2005/10/21(金)午前8:55
昭和“音の風景”
小ぶりだが美味い。
「馬車屋」のおにぎり
当時、あの頃の高崎駅前の土産物屋辺りは確か「アーケード」になっていたように憶えている。
今の朝鮮飯店の合い向かいがやはり旅館で道幅は現在の半分くらいだろうか大きな建物といえば新町までの右手の、月賦専門店「緑屋」が目立っていた。
僕は駅を背に右手の「馬車屋」と云う「おにぎり屋」が贔屓だった。
日通の高崎支店の手前である。
姉さん風の「キッ」とした女将さんと、手代のお姉さん。年の頃は三十半ばか。
その女将さんにしょっちゅう叱られながらも甲斐甲斐しく客を案内していた。
「すみませんねぇ、気が利かなくて」
女将は手を休めることなくおにぎりを握りながら客を気遣う。
「すみません、すみません」
と、すみませんを口癖のように繰返す手代のお姉さん。
まあ、客が七、八人で目一杯のカウンターだけの店だからそう意気込むこともないのだろうが、その女将さんはどう言う訳か律儀であった。
兎に角、その馬車屋。季節季節の漬物が美味い、これが堪らなく美味いのだ。それに、大きくも無く小さくも無い、いつも炊き立てのご飯のおにぎり。
僕はもっぱら、「おかか、こんぶ、シャケ」だったが、さっと仕上げた「なめこ汁」もなかなかのものだった。
今ではそんな気の利いたものを食わせる店はない。もっとも食う方もどうやらその辺、即席「インスタント世代」美味いも不味いも口が知らないのかも知れない。
その「馬車屋」も再開発とやらで、僕が暫く高崎を離れている間に姿を消してしまっていた。
もう一度食べてみたい。どうしても食べてみたいもののひとつなのだが・・・
しかし、どうやらそれは思い出の中に仕舞われてしまうのだろう。そうと思うと無性にもう一度食べてみたくなる最後に食べたのが昭和55、6年だったろうか。
間口半間のガラスの格子戸のシブイ滑車の音が今も耳に残る・・・
「馬車屋」を挟んで南に「もみじ食堂、小徳食堂」そして「堺屋土産物店」。北に、「キング・バー、喫茶うえの」とあったように記憶する。そして「日通」。そこから先は今はニチイ、高島屋となるが、一帯が「高崎倉庫」と「群バス」の車庫があり、もちろん舗装などはされてはおらず、梅雨時などの雨上がりは歩くのにも一苦労。また、雨が上がって乾けば乾いたで砂埃でまた往生させられたものだ。
その頃は高島屋の「た」の字も無い。今の高島屋、旧ダイエー辺りで「慈光通り」は袋になっていて、日通の貨物トラックと国鉄の客車の操作場が昼夜違わずけたたましく賑やかな音の所だった。
因みに、昭和三十年代まではその客車を揃える「客車区」と、上、信越線、両毛線を挟んだ向かいには「蒸気機関車」のターンテーブルが忙しくしていた。
そんな昭和三〇年代の風情がそこにはあった。
やきとり「ささき」
その、日通の前を暫く行くと右手に赤提灯見える。その頃は電車区とかになっていたのだろうか。昭和の三〇年代中頃までは本線を挟んで「SL」がターンテーブルの上で汽笛と共にもくもくと煙を吹き上げていた。
重厚長大な時代とでも云うのだろうか、あるものひとつひとつがとてつもなくおおきく映った。もっとも僕が子どもだったせいもあるのかも知れないが兎に角大人たちは忙しくしていたのが今でも脳裏に焼きついている。
その「赤提灯」には、「ささき」と書いてある。暖簾を背中に垂らして開いた戸口からは夕方になると勤め帰りの客がはみ出している。
古くからの客に言わせると、それを「コーラス」状態と言うのだそうだ。斜に構えて椅子に座るからそう云うのだそうだが、丁度「コーラスグループ」が唄う時のように。
「ささき」の客筋はと云えば、ポッポやにはじまって職工―――当時は少し北側にある「高崎鉄道管理局」から向こうは、東京ガス、古河鉱業、昭和電工、日清製粉、小島機械、水島鉄工所、そしてそれらを取巻くように下請けの工場が犇きあっていたのだった。
所謂、労働者。筋骨隆々とした汗の匂いをぷんぷんさせた戦後のひと時代を彩った大衆の街の音。この時代に思えばそれは粗野ではあるが今のような白けた冷たさはなかったような気がする。
「ささき」の品書きには「ヤキトリ」と「お新香」しかない。それも、「ヤキトリ」とは云うものの「鶏」ではなく、「豚モツ」である。
「ヒモ、レバー、タン、ハツ、カシラ、コブクロ、ナンコツ」。それの、塩かタレ。
「ささき」は、女将さん、ママさんと言うよりは、どちらかと言うと「お母さん」の趣。詳しくは聞いたことは無いが何でも2代目で、出身は「越中富山」だと聞いていた。
お手伝いのお姉さんも、お姉さんと言うよりは「お姉ちゃん」。
その「ささき」が再開発で通町に移転するまで、「お姉ちゃん」も何代か替っている。
しかし、源氏名かどうかは知らないが、何れも「ちーちゃん」であったと記憶する。
また、夫々の「ちーちゃん」が姉妹であるかのようによく似ていて、代々の「ちーちゃん」が共に「やきとり屋」の趣ではない。がしかしその趣ではないにしてみてもやはりそこは「ささき」の「ちーちゃん」なのである。これは万人の譲る所である。
ママさんは・・・・・
ママさんと云うよりは「お母さん」。
そのお母さんはもの優しい言葉遣いで得もいえぬ面持ちで酔客を心地好くさせる。
中には酒癖の悪い客も時にはいる。
「まー怖い―――いけませんよ。もうお出ししません」と、その客が四の五の言おうと。
「はい、お会計。早く帰んなさい」と捌かれてしまう。
代々の「ちーちゃん」も口数は至って少ない。
もっとも、夕方五時も間も無く「満席」。
それでさっきの「コーラス」状態で二〇人近くがカウンターに集るとそこは既に、まるで「すずめの学校」なのだ。
それも、柱時計が十一時を打つ頃には黙っていても閉店を知らされる。
それもそのはず、「高崎線、上信越線、両毛線、八高線、上信」と最終電車が無情にも最後の串を取り上げる。
僕が初めて「ささき」に行ったのはやはり昭和四五年頃だろう。
ニュージャパンのメンバーでもあり友人だった「加部」に連れられていったのが最初だった。
「なべ―――イッパイ行くか」
僕にとっての「ささき」の始まりははっきりはしないが、その酒飲み人生のとっつきが「ささき」であったことは間違いがない。
ジャパンの仕事が休みの時によく加部と連れ立って「ささき」、「中熊」、「一力」そして上がりが「富寿司」だった。
「今度立ち退きでお店は続けたいんだけどね」とお母さん。
そう云えば、駅前の再開発でその「ささき」の直ぐ前にスーパー「ダイエー」と「高島屋」が出来ていた。当然駅周辺の様子も一変し、既に「ささき」の裏に広がった「電車区」も既に双葉町の方へ移っていた。
長女がオシメをしている頃もよく行った。まるい椅子を二つほどつなげてその長女の惜しめを替えたのが懐かしい。その長女、昭和五一年生まれだから今から27年も昔の事だ。
「しばらくお休みするけどまた開けたらお出かけください」
どこまでも丁寧な口調。
保健所の営業許可証には「佐々木真一」と書かれていた。
「佐々木真一」―――どこかで聞いた事がある名前だ。そうだ確かそんな名前の歌手がいた。
いつかお母さんに聞いた事があった。
「佐々木真一って――――息子さん?」
「そうなの―――息子、今度のお店の時は息子にやってもらう事にしてるの」
その後、暫くは僕も仕事で東京へ通ったりしていていつも夜遅く今はない「ささき」の前を通り過ぎながら後ろに「その」音を聞いて「ささき」を懐かしんでいた。
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高崎駅・・・・・
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2005/10/21(金)午前8:51
昭和“音の風景”
高崎駅「東口」。
その西口が高崎の表玄関。
「西口」と言うからには「東口」もあった。
しかし当時、それは「ついで」のようにひっそりと佇むようにしていた。
西口から東口に行くには七番ホーム、南の階段を過ぎて行く。
七番ホームから東口の架橋の距離は3百メートルくらいはあっただろうか、その架橋の下にはぎっしりと長蛇の客車、貨車が連なり、高崎駅が北関東の鉄道の要衝であることを物語っていた。
高崎駅東口は「工業地帯」で、今は「109」などと囃されているが、往時は「沖電気、昭和電工、高崎製紙、古川鉱業」等々と東町、栄町一体、煙と騒音でけたたましく揺れていた。もっとも其処から先一体は田圃だらけで「高崎競馬場」も透けて見えた風景の時代だった。
そこを南北に走り抜ける通りを「東三条通り」と呼んでいたが、駅東口北側は工場への出入りのトラックが忙しくするくらいで、ただ土煙の立ち込める裏通り、当然舗装などはされていなかったので、雨でも降った日にはとても歩くに歩けない高崎の「裏」がそこにあった。
線路を挟んで東西に分けるのは全て「踏み切り」。
もちろん和田町の踏切り、高崎線、貨物列車の入替えやら、上信電鉄の上下の往来で「開かずの踏切り」で名が知れていた。だんだん車が増えてくる時代になると、八間道路から東三条通りに抜ける「中里街道踏切り」、ここが一番の「開かずの踏切り」平成の今はなっている。まだ上信越、両毛のしたを潜るトンネル工事が終わってない。
それは三〇年からの構想でまだまだかかりそうな様子だ。それにひきかえ旭町、旧高崎鉄道管理局の所から群馬トヨタに抜けるトンネル、和田町の沖電に抜けるトンネル、既に開通して数年が過ぎている。もっともその間、街の様相はすっかりと様変わりしてしまっている。
高崎の中心街はドーナツ化減少で人も商店も過疎の町。何処でもそうだろうがこうした大型、長期にわたる公共事業、完成した時には使う人、利用者はもうそこにはいない。もっとも、市全体ががらっと変ってしまっているのだからどうにもなる話ではない。
その東口。どうしたことか、ご案内の「109」だのマンションだのと、そこにはその頃の面影の欠片さえない。
「高崎駅西口」
「西口」は、駅舎を抜けると旅館、土産物屋が軒を並べ「万年屋」、「永楽」の食道に、当時ずいぶんと繁盛したハイカラな駅前喫茶「ブリッジ」、そして、レストラン喫茶「ナポリ」なんて云う飲食街が駅前を賑やかにしていた。
店の名前はなんと言ったか・・・
そうだ「堺屋土産物店」。
駅を背中に右角にあったおみやげ屋。そこの「南洋豆」という名前の南京豆菓子、不思議と美味くて事あるごとに買い求めていた。
二軒並んでいた手前の方の店である。
その頃はその飲食街の路地を通り抜けると南小学校辺りに夕方になると屋台の「おでんや」を商う店が未だ数件あったような記憶がある。
ほんのりとアルコールランプのともる「屋台」。グラスに注がれた日本酒か、焼酎の「梅割り」。最後まで残っていたのは、四〇年代、その時既に70絡みの女将、何を話すでもなくおでんを肴にコップ酒2、3杯ほろ酔い加減が赤城颪にはなんとも優しかった。
ところで、昭和四二年に「問屋町」なるものが仕上がるまでは、「吉野藤」、「国光」の老舗繊維問屋が新町の角に羽場を利かせていた。「商都高崎」を象徴するが如く、駅前から立ち並ぶ旅館、土産物屋。多分、岐阜、近江の繊維問屋が仕入れに、忙しくしていたのだろう。その屋号はみんな地方地方の名がつけられていた。
高崎の街にもモータリゼーションか、自動車の数も見る見るうちに増え、そこで北関東初の問屋専門の街、「問屋町」が高崎の北部、飯塚と小八木をまたいで造られた。
商都高崎。
その停車場から数歩に「豊田屋」、「信濃屋」の老舗旅館とその問屋筋「大店」の旦那衆の帳に料亭「岡源」さらには、元紺屋、中紺屋の繊維問屋街を過ぎれば「たかさき」の奥座敷、花街「柳川町」が袖を引かせた界隈が鎮座していた。
戦前、戦中、そして戦後と、所謂「青線」。
芸子、妓娼を置いた「置屋」の町がそこには「大人の夜」を咲かせていたのだ。
昭和の戦前、大正ロマンと時代を遡ればまさに「ハイカラさんが通る」、軍靴のざわめきを他所に高崎の「モボ」、「モガ」が粋とお洒落を競ったのがその辺りだったのではないだろうか。
僕の祖父、明治半ば生まれの時代だろう。
チンチン電車
僕等の時代の高崎駅「西口」は戦後と言うより、この国に戦争があった事などを忘れさせていた頃だった。
昭和二〇年代の終わり頃まで、高崎駅を起点に渋川伊香保までの「チンチン電車」。
僕の記憶の中にはその姿は無いが軌道だけが残る田町通りは微かにおぼえている・・・ような気がする。
もっとも、子供の頃、北高崎、信越線北駅の東方に「電車山」なるものがあってそこを遊び場に冒険心を昂ぶらせたものだった。
その「チンチン電車」は高崎駅から新町の交差点を右に折れ田町通りを直進し本町三丁目を左折、本町二丁目、久保川呉服店辺りを右折し着た駅方面に今の渋川街道へと走ってた。請地の裏通りに今でもそれらしき跡が二一世紀、平成のこの時代にも小さな児童公園になって名残を見せている。
因みにその「チンチン電車」だが全国各地の市電のそれはある。
今も、福井、長崎、豊橋、高知などにはその名残をがある。
自動車社会興隆の中でほとんどの都市がその「チンチン電車」えお廃線してきた。
ここ高崎も昭和二八年に撤廃されたと言う。
聴いた話だが、この「チンチン電車」どうやら東武鉄道系のようだ。
東京、池袋からの「東武東上線」。これはそもそも、東上線とは、「東京」と「上州」を結ぶ路線として明治か、大正の時代に計画されていたようだ。
国有鉄道が八王子から高崎まで「八高線」が開通した為、東武東上線は「寄居」で止まらざろう得ないことになったようだ。そこで高崎から伊香保までの間を東武鉄道が路線を施設した。その廃線後も「東武バス」がその路線を引継いでいる。
東武伊勢崎線、そして群馬県内の観光地の多くが「東武財閥」の経営となっていることをみても分かる。
高崎はそれなりに歴史のある都市、それはどうやら鎌倉時代からのもののようだ。
ほんとうは「ロマン」溢れた町なのかも知れない
KINEZUKA倶楽部
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