[群馬高崎]ラーメン屋「成吉思汗」
[群馬高崎]ラーメン屋「成吉思汗」
“チャルメラ横丁”
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2006/5/28(日)午前9:13
昭和“音の風景”
群馬県
「チャル横丁」
「たかさき」でラーメンを語るには、一時、田町通りに軒を連ねた、「夜鳴き」なくしては後も先もない。
あれは、昭和の三五、六年頃だっただろうか・・・
「来来軒」。
僕の家の傍に住んでいた・・・いや、住んでいたというか、それは「居た」と云う趣であった。あの時代、それぞれに訳ありのご時世だったし、ご多分に漏れずその来来軒ファミリーもまさにそれそのものだった。縦に二畳一間、正真正銘の「うなぎの寝床」の間借。
そんなうなぎの寝床に親子三人で暮らすなんて言うのも別になんとも思わなかった時代だったし、周り中が似たか寄ったかの暮し向きの時代だった。
そのうなぎの寝床の店子の「来来軒」マスターファミリー。ま、マスターと言ったかどうかは知らないが、そのマスター、なんでも出は良かったようで、高崎の「大店」の「ボン」だったと言う噂はその近所には知れ渡っていた。
来来軒、既に彼岸に旅立ったと風の便りに聞くが・・・その昔、高崎商業高等学校では野球部で腕を鳴らし「甲子園」にも行ったと言う、兵だったらしい。
僕よりも四歳年下の「息子」がその来来軒には居た。
マスターには訳在りの小母さんが時々入替わりに寄せていたが、もちろん「クレイマー・クレイマー」を地で行くような趣であった。
その息子、学校から帰ると健気にも来来軒、親父の「屋台」の支度を手伝い七輪に炭を熾すのも慣れた手つき・・・けして「幸福」とは言ないが、これが滅法明るい横丁の少年だった。
まあ、何処も彼処も似たようなもの、生活環境だったのだから暗くなりようがなかったのだろう。
来来軒のマスターと来た日には、兎に角「酒癖」が悪い。それは「悪い」と言うよりも、多分、酒に「弱い」のではないだろうか・・・〈弱いくせに酒好きで、飲むと人が変わるタイプ〉の人・・・時に良く見かける。
マスター、朝方には、その屋台を枕に酔い潰れている。
「父ちゃん、父ちゃん、風邪ひくよっ」
と、孝行息子。何処までも健気に酔いつぶれた親父を介抱する。
酔っ払った挙句喧嘩でもしたのだろうか、唸りながらブツブツ言ってる来来軒。
「しょうがねえなぁ・・・父ちゃん」
いたわるように呟く息子
「父ちゃん・・・俺、学校、行って来るからね」
と、学校に行く時間になるとそんな孝行息子の優しい声が路地に流れる。
日清製粉の板塀。そこの路地の奥まった所に「来来軒」の屋台はいつも置かれていた。
ある日僕はそんな孝行息子にしばらくぶりに出会った。
「元気ーーー!!」
と、無茶苦茶明るい昔の面影を残す来来軒の息子。
その孝行息子も、今度五〇になると言う。
ラーメンは延びてはいけないが、「幸せ」は延びれば延びるほどよいかも知れない。
その時僕の耳元にあの来来軒の“チャルメラ”がふとよぎった。
〈ピラリーラリ、ピラリラリーラリ〉
来来軒の息子、あの時のままの明るさと満面の笑顔・・・・僕は、その孝行息子にとっておきの元気を貰ったような気がして嬉しくなった。
ふと目を閉じると、日清製粉の板塀と奥まった突付の日清製粉の社宅を背景の来来軒の屋台。そんな高砂町、横丁の風情に孝行息子の「父ちゃ~~~ん」が聞こえた。
「本郷軒」
江木の方からは「本郷軒」。ここは2代目だと云う。僕は、「たつみ」が良いと言う方も居られるが、なんと云っても「本郷軒」が好みだ。ラーメンの「上がり」が早い。麺はいつも固めで、スープ味はさっぱり目。本当の「支那そば」って云う感じがする。
夕方5時過ぎ頃には「チャルメラ」を鳴らしながら町内を引いていく。先代は歩いて引いたが、2代目は「ホンダスーパーカブ」を、そろりそろりと横丁を往来した。
「ラーメン屋さ~ん」
あちこちからドンブリを手に屋台を囲む。不思議なもので一人が声をかけだすとつられるように四、五人がいつも決まって集まってくる。当時は未だ「出前」ものを取るとかと言ったような贅沢は無かったし、子供が三、四人もいた日には「ラーメン代」だけでも大変な額になってしまう。
そんな時に決まって声をかけるのはこれから夜のお給仕に出かけるお姉さんかお兄さん。どちらかと云えば僕等はそれを羨ましそうに眺めていた口であった。もちろんそんなお姉さんお兄さんの暮らし向きは貸間住まい。アパートなどと言う代物ではなかったし「バス、トイレ」なんて言う時代ではないので、銭湯帰りだろうか・・・
「兄さん男前ねっ、チャーシュウおまけしてね」
「あいよ」
と、互い、軽口を交わし、柔肌だったかどうかは知らないが得も言えぬ芳香を振りまきながらそのドンブリを手に順番を待っていた。
「本郷軒」は二代目とか言っていた。
そうだ・・・この親爺も「酒好き」の意気地なし(失礼、そう見えた)・・・そして多分「弱い」のだろう。
その本郷軒、朝方は五時頃まで商っている。出掛けにはその途中、横丁の酒屋でコップ酒をすでに軽く一杯引っかけてくる「本郷軒」。車の通りの引けた頃合を見計らって大通りに屋台を張る。夜も更けて九時、十時が食べるなら丁度の時間かもしれない。
「午前様」を迎える頃ともなるとあとはいけない。あとは「へべれけ」で、目を据わらせながら「麺」を上げている。そうなると、折角の「本郷軒」のシコシコ麺もさっぱりスープあったもんじゃあない。
「親爺っ、このラーメン伸びてるぞ」
なんて客が文句のひとつも言おうものならさあ大変。
「なにを…じゃっ、ラーメンもうオシメエだっ。やならよしゃあがれ、ゼニはいらねぇ」
と、言ってさっさと火を落として提灯を消しちゃう本郷軒。
兎に角酒が入るとコロッと変わっちまうのだから始末が悪い。普段はどちらかと云うと物静かなお兄さんなの本郷軒なのだが。このところ、話も聞くことはないが・・・
どうしているだろう。
“○×軒”
石原から毎週「金曜日」に赤羽楽器前にお出ましになる「夜鳴き」。
屋台の名前をど忘れしてしまった・・・「なんとか軒」であることは確か。この方も二代目。あっ、思い出した、そうそう「○×軒」だ。
その「○×軒」の親爺にいつか聞いてみた・・・
「本郷軒の親爺、糖尿悪そうだったけど、死んじまったって本当かい」
って・・・・・そしたら、○×軒の親爺が言った。
「この間ふら~~~と、本郷軒、久しぶりに来たよ。それでそんな話をしたら本郷軒『みんなで俺を殺しやがる』ってわらってたよ」
「そうかい、元気だったんだ・・・・・」
と、僕が言うと、
「この商売、結構冬場は冷えてどうしょもねえんだ。本郷軒も膝と腰やったってずっと立ってられねえんだってよ」
もっとも「本郷軒」、もう七〇を越えているし、途切れ途切れの客じゃあ確かに立ちっぱなしはえらい事だ。「○×軒」の親爺も、暗闇だからいいけど、昼間見た日には「不健康」そのものだもの。
どう云うわけかこの所「ソニー坊や」が何時もお手伝いしている・・・澄んだ目をして。
そう言えばそのソニー坊や、末広町の大連やら、双葉町の巨人にも出没している。知る人ぞ知る“ソニー坊や”。
「成吉思汗」
そうだ・・・やはり、「成吉思汗」。ここは昭和四〇年代によく通った本格的「ラーメン屋」。何が本格的かはよくわからないが、僕も仕事柄全国のラーメン屋を食っているが、ここ、「成吉思汗」は間違いなく一押しだ。
なんと言っても、あの小汚い店の「ラーメン」が格別なのである。
〈小汚い、は余計だ〉と、叱られそうだが、それも昔の話で、今は「小奇麗」どう言う訳かBGMが「ジャズ」と言うのも洒落ている。
つるっ禿の爺さんが、帳場で「勘定」をする。
「成吉思汗」と、名前の通り如何にも「本場」と云う感じの「ラーメン屋」。もっともその頃本場のジンギスカンラーメンを知っていたわけじゃあないし、ジンギスカンがラーメンの本場だと言う話も聞いたことはないから確信は無いが、兎に角雰囲気が想像のそれなのだ。
醤油ラーメンだがギトギトに脂ぎったスープ。麺・・・これは「絶品」。
それに「支那竹」が、日本一美味い。いや、大袈裟ではなく実に美味い。
ただし、ここ「成吉思汗」のラーメンを食べるなら夕方のそれが僕は好きだ。昼はスープはどちらかと云うと「さっぱり」。
やはり、ここは「ギトギト」の「こってり」が美味い。
昭和四四年、僕が「みゆきダンスホール」にバンドで出ていた時は何時ものようにここ「成吉思汗」のラーメンを食べていた。今のマスターは僕より三つ歳上だから、当時、二四歳か。
今では、主のような「ママさん」も、当時は未だそのマスターと交際中だったか新婚ほやほやだったか、まさにおぼこ娘・・・(だったかどうかは知らないが)そのままの趣。
それでも、店を手伝っていた時は恥ずかしそうにして、下を向いて「注文」を取っていたような気がする。
今では想像もつかないが歳月は切なくも儚い。
今も時々寄らせてもらうが、そんな古い話をしようもんなら・・・
「ヘーーーーッ」
と、そっくり返って、
「グァハーーーーッ」
と、貫禄十分の女将さんになっている。
僕の当時の定番は、「ラーメン&カレー」の合せ技だ。
これが絶妙なバランスで絡み合う。悪いが、今のそれより、昔のそれの方が数段に美味いと、感じるのは僕の年のせいなのだろうか。
しかし、この「ラーメン&カレー」を食すには作法が要る・・・
その作法とは、まず、微妙なバランスで大きめなスプーンに「カレーライス」を適宜な分量を量るように乗せ、「ふっ」っと、口に含む。
そう・・・あくまでも含むと言う技が肝心なのだ。
そこへ、やおらに裂け具合の悪い「割り箸」で、玉のように浮く脂を「さっ」と絡め、口中で、今か今かと迎える「カレーライス」と「合体」させる・・・
実に芳醇でマッタリとした香と歯ごたえのバランスの取れた「味」に思わず舌鼓を打つ。それに、カレー・ライスに合い物の「福神漬け」。新進か東海かは知る由も無いがその味は今の物ではない。
やはり「成吉思汗」、ここのラーメンは「閉店間際」のそれが「ゴキゲン」だ。
ついでと言っちゃあ失礼だが、ここの「ワンタンメン」もそん所そこらで食える「ワンタンメン」ではないことを付け加えておこう。
「らっちゃん」
中通の「らっちゃん」が店を絶たんでしまったのは残念で仕方がない。
「らっちゃん」は僕が中学に通ってる頃から同じ場所にずっとあった。その頃の「らっちゃん」はひとつの店舗を半分にしたような店で、隣は多分「らっちゃん」のマスターの親父さんだろうが、浅間写真とか言う「カメラ屋」をやっていた。
いや・・・多分ではない絶対に「らっちゃん」の親父さんだ。第一そっくりな「ひょー」っと言う顔をしていたし、よくもこうまで似るものだと思わせるほどの迫力があった。
その「らっちゃん」の親父さんのカメラ屋の小父さんが面白かった。
たしか「浅間カメラ」とかいった屋号だったと記憶する。
「僕・・・いい物を見せてやるよ」
丁度カメラに興味があった年頃の僕たちで、学校帰りの途中に店を覗き込むと、小父さんが小さな望遠鏡のような覗きメガネのような物を出してきて、
「見てごらん」
と、ニコニコ笑ってる。
覗くと、その望遠鏡、覗きメガネの中で裸のオネエサンがくるくる回ってる。
僕等が「ワーッ」と騒ごうものならその「らっちゃん」のマスターそっくりの小父さん。
「ハッハッハッハーーーー」
と、僕らをからかうように大笑いしていた面白い小父さんだった。
もっともあの時代、昭和三五年当時「カメラ屋」をやろうというのだから相当にハイカラな粋人だったのだろう。
僕が、キャバレー「ニュージャパン」のドラマーだった頃は、毎晩のように食いに行っていたが、その頃にはもう「カメラ屋」はなかった。その分「らっちゃん」は倍の広さになっていた。
「らっちゃん」は、一に「焼きそば」、二に「湯麺」、三、四がなくて、五に餃子。
五に餃子とは言うものの「らっちゃん」の餃子は「カラッ」としていて、薄皮の「もっちり」した、「焼き餃子」、これもそん所そこらの餃子とはその餃子が違う。
本当は「一」に「餃子」を上げたい所なのだが、幾ら美味くても餃子は添えもんである。その薄皮も然ることながらアンコも癖のないのが癖と言った感じの絶品。
何のことはない、僕は何を食べるにしろ、焼ソバであろうが、湯麺であろうが必ずその餃子を食べた。
しかし、秘伝を継承するお世継ぎは時代の流れか店に立つ事はなかった。
「らっちゃん」の息子・・・大学生だったのだろうか、その頃は休みの時には時々店を手伝っていた。
どうも、あそこんちは代々男親の「DNA」が強烈なのか、二人の息子、小さい時からみているが、「らっちゃん」は、カメラ屋の親父にそっくりで、息子達は二人とも「らっちゃん」にそっくりと来ている。
「らっちゃん」のママさんは丸顔の品のいいお母さんだったが「男衆」はみんな「ラッキョ顔」。
しかし、あの「らっちゃん」の焼ソバがもう今はない、食えないと思うと寂しいのは僕だけではないはず。
それぞれの理由で高崎を離れた幾人かの知り合いに聞いても決まってこう言う。
「真っ先にらっちゃんの『焼ソバ』だよな」
あの・・・ラッキョ顔のマスターも、どうやら草臥れて焼きが回ったのか、それともたんまりと身上残して悠悠自適の隠居暮らしなのか。おそらく今時分は古希だろう。そう僕らの我が侭に付き合っているわけにも行かないのだろうが・・・
しかし残念だ。またひとつ、大切なものが零れてしまったような気だする。
昭和と言う「ポケット」から。
KINEZUKA倶楽部
https://blogs.yahoo.co.jp/clark_kenta/