[東京秋葉原] 交通博物館





















































































旧万世橋駅見学会
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2006/2/4(土) 午後 1:42
鉄道ネタ 練習用
#鉄道博物館
皆様も一度は行ったことがあるのではないでしょうか?
交通博物館は旧万世橋駅だったのです。
当時の駅舎はとても立派です。東京駅も設計した辰野金吾工学博士によるものです。
そして当時の切符は3等5銭、昭和11年2月4日の日付が入ってます。
参考資料
交通博物館 飯能まえ宏氏
レンガアーチの内部ですが、まだまだ70数年たっても健在です。おやぁ~見学者の頭が見えますねぇ。
この駅も東京駅同様にオランダのアムステルダムの中央駅を頭の中において設計したと言われています。
↑↑
訂正>辰野金吾氏はオランダに行ったことが無いのでこの記述は定かではありません。失礼しました。

外神田探検隊「一路」写真館
https://blogs.yahoo.co.jp/kanda_ichirono1










1936










<特急あずさ3号車窓観察(5)伊能図を歩く-甲府~勝沼->
特急あずさ3号車窓観察(6)記事をクリップするクリップ追加
2010/1/13(水) 午前 10:08 路上観察(ウオッチング) その他趣味
私の好きなTV番組に「ぶらタモリ」があります。以前放映の「秋葉原」で旧万世橋駅のホームを紹介していました。
旧甲州街道歩きで利用している特急あずさ号の車窓からも見えるかもしれないと秋葉原駅を通過してからデジカメをかまえて注意して見てみました。(2010.1.11)
左車窓に神田川にかかる昌平橋とその向こうに万世橋が見えてきます。右の線路は中央線で、枯れた雑草に覆われたところが「万世橋駅」のホームらしいのです。
昔の絵や写真で見ると東京駅に外観が似た立派な駅舎です。万世橋駅は明治45年に開業し関東大地震で駅舎が消失したといいます。開業当時は中央本線の終着駅で賑わっていたようで、その後の鉄道の進展に伴い神田駅ができたりして役目も終ったといいます。(万世橋駅)
ところで手前の昌平橋は旧中山道のルートで、中山道を歩き始めた初日のことを思い出して懐かしくなりました。

旅は道づれ風吹くままに
https://blogs.yahoo.co.jp/hanamipark/31930632.html

























万世橋駅遺構によどむ近代の記憶―さようなら交通博物館
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2006/5/12(金) 午前 5:02 折々の雑記 鉄道、列車
秋葉原駅からほど近い万世橋にある交通博物館が,5月14日(日)についに閉館します。
鉄道博物館として1921(大正10)年に開設されて以来,乗り物好きの子どもたち(の心を持った大人たち)に愛され続けてきた85年でした。
繰り返し何度も訪れるほどのファンではありませんでしたが,私なりにお別れを言おうと,電話予約をした上で,記念行事として行われている「旧万世橋遺構特別公開」に参加してきました。
■近代文学と万世橋
「万世橋」という地名は,夏目漱石の「彼岸過迄」(1912)や「こころ」(1914),泉鏡花の「婦系図」(1907)や菊池寛の「真珠夫人」(1920)など,近代文学の名作にもしばしば登場しています。たとえば「こころ」の場合は,先生がKを出し抜いて奥さんにお嬢さんとの結婚を申し込んだ直後の「下 四十六」に出てきます。
しかし黙って自分の机の前にすわって、二人のこそこそ話を遠くから聞いている私を想像してみると、何だか落ち付いていられないような気もするのです。私はとうとう帽子をかぶって表へ出ました。(中略)
私はとうとう万世橋を渡って、明神の坂を上がって、本郷台へ来て、それからまた菊坂を下りて、しまいに小石川の谷へ下りたのです。
■万世橋駅の栄光
1912(明治45)年に開業した万世橋駅は,東京駅を手がけた辰野金吾と葛西万司が設計した赤レンガ造りの見事な駅舎で知られていました。名所として絵葉書の図柄としても取り上げられた,中央線の東京ターミナル駅です。駅前広場には廣瀬中佐の銅像がそびえ立っていました。日本で最も早く電化された路線でもあり,「万世橋~中野」間を走った一両編制の電車は人々に愛されました。
そうです。偶然ですが,田村カフカやナカタさんが住んでいた街である中野につながる空間でもあるわけです。
現代の読者にとって「万世橋」という地名は,とりたてて深い意味を持つものではありません。しかし発表当時の読者にとっての「万世橋」とは,今ならさしずめ「新宿」とか「池袋」のようなにぎやかなターミナル駅のイメージがあったのだろうと思います。旅客切符に応じて1等から3等までの待合室が完備していたのに加え,手荷物受け渡し所や婦人待合室,第一から第三までの3つの食堂まであったと言います。もしかすると「新宿」「池袋」というよりも,「羽田」とか「成田」のような旅の始発点としてのイメージを思い浮かべた方がいいのかもしれません。
たとえば,泉鏡花の「売色鴨南蛮」(1920)という小説には,「場所は院線電車の万世橋の停車場の、あの高い待合所であった」とか「今日は本郷どおりの電車を万世橋で下りて、例の、銅像を横に、大きな煉瓦を潜って、高い石段を昇った」というような描写があります。「あの」とか「例の」という表現に,当時の(東京の)人々にとって万世橋付近の光景がいかにおなじみのものであったのかがうかがえます。
万世橋駅の終焉
万世橋駅は,1919(大正8)年に神田駅が開業したことを機に,ターミナル駅としての華やかな役割を終えることになります。「東京~万世橋」間が開通してしまったために,中央線の基点は東京駅に移ってしまうのです。昭和18年には駅そのものが営業を休止し,現在ではレンガ造りの高架線の上にかつてのプラットフォームの残骸が残されているだけになってしまいました。
神田駅開業の翌年に発表されている「売色鴨南蛮」は,絶頂期を過ぎて消滅への道を歩み始めた万世橋駅という空間を巧みに使い,泉鏡花独特の幻想的な物語を生み出していたのだと言っていいのだろうと思います。
さようなら万世橋駅,さようなら交通博物館
特別公開で最初に案内された高架下の暗い空間では,レンガで造られた壁面をスクリーンにして,交通博物館の歴史を振り返る短いビデオが流されました。乗り物の展示に目を輝かせる昭和時代の子どもたちがたくさん映し出され,「ああ,閉館なんだな~」としみじみ思いました。
短い時間ではありましたけれど,かびくさく薄暗い高架下の遺構にたたずんでいると,どこかへ遠いところへ意識が抜け出していくような,不思議な感覚にも襲われました。万世橋という空間によどむ過去の記憶の堆積が,身体全体にしみこんでくる感じです。なんだか,すごく切ない気分になりました。
もうあのときの,あの空間には二度と立つことはできないでしょうけれど,あのときに感じた不思議な感覚は身体に深く刻まれています。
※閉館後はなくなってしまうかも知れませんが,交通博物館のサイト内に「万世橋駅のうつりかわり」という見ごたえ十分のページがあります。今のうちにぜひ!

BUNGAKU@モダン日本
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