日本人の食生活は肉食から始まった。
つまり今田濃厚も知らず、その日その日を生きることに精一杯だった原始人にとって、狩りに出て得ることができる獣は手っ取り早いご馳走だった。
当時食べていた獣はシカ・イノシシ・クマ・キツネ・サル・タヌキ・ムササビなど60種類を数えることができる。
言ってみれば捕まえられるものはほとんど食用にしていたのである。その中でも多かったのはシカとイノシシだった。
そして天武4年(675年)仏教の伝来とともに、天武天皇は殺傷禁断令なる令をだして、牛馬猿鳥のしし(肉)を食べることを禁じたのである。
しかしこの令にも例外はあり、「その他は禁制にあらず」とあり、「この他」について具体的にあげているわけではないが、それは当然鹿や猪を意味した。鹿や猪は当時の常食であったので例外とせざるを得なかったとも考えられる。殺傷禁断令は明治5年まで続くことになった。
しかし、江戸の町にはすでに肉屋があった。場所は平河町3丁目。「ももんじ屋」といわれていた。
店を始めたのは天和2年(1682年)から元禄4年(1691年)の間のことであった。というのは、「御府内沿革図書」を見て行くとこのももんじ屋のあった場所が武家地から町屋になったのはこの期間、つまり天和二年にはまだ武家地であったが元禄4年には町屋になっているからである。
この屋敷は正式には山奥家と言った。ももんじ屋がなぜこの平河町に店を構えたのか。この地域はほとんどが大名屋敷と旗本の屋敷、つまり周辺すべてももんじ屋の得意先であったからである。
統治下に獣の肉を食べていたか寛永20年(1643年)の「料理物語」には シカ・イノシシ・クマ・キツネ・サル・タヌキの調理法が記載されており、さらに遡ること宝暦10年(1760年)に出版された「名産諸式往来」には江戸の麹町では シカ・イノシシ・クマ・キツネ・サル・タヌキの肉が売られていたとある。ご禁制の犬もあったことが分かる。
牛も鳥も食べていた。しかも牛肉は献上品にまでなっていたのである。近江国彦根藩主は寒中見舞いと称して、将軍家に牛肉の味噌漬け・干し牛肉・酒炒牛肉・粕漬けを送っている。
水戸光圀もまた大の牛肉党だった。
-小管桂子 日本洋食物語大全
#レストラン食堂
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江戸時代は、病弱者に力をつけるということで「薬食い」と称して獣肉食いの、効用・効能を喧伝した。
江戸の麹町平河町に、獣肉薬食いの 「山奥屋= (俗称) ももんじ屋」があった。
店頭には、図のように獣肉の、「鹿・狐・狼・熊・狸・かわうそ・いたち・猫・山犬」まで並べていた。
狐は、デキもの。
狼は、五臓に力を。
狸は、痔の病気。
鹿は、産後に。
熊は、虚弱体。
猿は、マラリヤ。
猪は、五臓・テンカン。
………などの効能が喧伝されていた。
牛を、冬牡丹。
鹿は、モミジ。
猪は、山クジラ。
………などの隠語で呼ばれた。
*************************************
「ももん」とは。
「もmo(甲類)」=腿の形態・盛り上がった形態」。[用語例・腿・桃・藻・森・燃]
「ん=み」。髪挿し・かみさし⇒かんざし。神主・まみぬし⇒かんぬし。
「みmui(乙類)前母音脱落⇒mi=躍動して射る形態=雷・神(カムイ)」
「が=荒々しい形態。がたがた・がりがりの粗野・粗雑な形態」。
ガッとむき出した獣の口をイメージできる語。
ももんが
=「ももん=〔もも+み〕=腿の身・腿肉」+「が=粗野」
=粗野な腿肉=獣の腿肉。
「ももんじ」の「じ」は「宍・しし」=獣の肉のこと。
「猪・ゐのしし」・「鹿肉・かのしし」。
「シ・ジ=下方向の形態・じべた・足・知る・敷く・死に・腰・岸」。
故に「しし・獣の肉」は「死んで下に」横たわる獲物の肉を意味する語である。
この語は縄文時代の狩猟生活の痕跡が刻まれた「生活用語」である。
「やまくじら・山鯨」は猪の肉の隠語で、この看板を掲げて肉料理店を出していた時代はペリーが来航した安政時代である。
江戸の市内では獣肉料理屋(ももんじや)があったが、毛嫌いする人々も多かった。
しかし、肉の味を知ると病みつきになる。
石器時代は獣の肉は重要な生活の中心的食料であった。
野山や里に出没する猪は今日でも非常に多く、手に負えないくらいに繁殖している。
猪や鹿と日本人の関わりは、全国で出土した石鏃の膨大な量を見れば解る。
三内丸山遺跡の落とし穴の数や規模からすると、明らかにイノシシやシカなどの大型獣を獲得するための大掛かりな装置であることが判る。
0926
安見知之 和期大王波 見吉野乃 飽津之小野笶 野上者
跡見居置而 御山者 射目立渡 朝獵尓 十六履起之
夕狩尓 十里蹋立 馬並而 御獵曽立為 春之茂野尓
やすみしし わごおほきみは みよしのの あきづのをのの ののうへには
とみすゑおきて みやまには いめたてわたし あさがりに ししふみおこし
ゆふがりに とりふみたて うまなめて みかりぞたたす はるのしげのに
0927
足引之 山毛野毛 御獵人 得物矢手挾 散動而有所見
あしひきの やまにものにも みかりひと さつやたばさみ さわきてありみゆ
あしひきの・野にも山にも み狩人が 矢をたばさんで
狩り場で勢子や犬が騒ぎ立てて獲物を追い込んで狩りをしているのが見える。
この万葉集の歌を読むと、天皇も狩りがお好きのようで、朝狩り・夕狩りと夢中になっている姿が微笑ましい。
捕らえた獲物は当然野宴を開いて大勢で食したのである。
この伝統は、仏教の影響で国からの禁止規制が掛かっても簡単には消えなかった。
日本書紀の天武天皇四年(675年)の天皇の詔で、
四月一日から九月三十日の期間は「牛・馬・犬・猿・鶏」の肉を食べると罪になることが発令されている。
面白いのは「猪」だけは禁止されていない。
そしてこの期間が経過すれば食べても良いということになる。
このことは一律に殺生禁止が不可能であるということを物語っている。
鎌倉中期の辞典である「拾芥抄・下」二十九に、医書として、五畜の味のことが書かれている。
牛は甘い。 猪は塩にがく。 羊は苦く。 鶏は辛く。 犬は酸味あり。
平安時代の公家が肉食したことがバレて、宮中の参内を七十日差し止められたという記録がある。
織田信長の庇護のもとにあったフロイスの「日本覚書」の本に、
「我らは犬を遠ざけ牛を食べる。日本人は牛を避け、薬と称して犬を食う………」
とあり、当時の戦国の世が判る。
しかし公家社会の道教の教えからくる犬に対する穢の恐れや、仏教の殺生禁止の理念で、
表では、獣肉を食することを憚ってきたが、裏ではこっそりと食していたという、
白と黒が重なり合うところにできる、中間のネズミイロの薄暗い歴史があったことだけは、史実として知るべきである。
………文化国家である現在の日本人社会は、江戸時代とは違って、可愛らしい犬・猫などを、決して食べません。
そんな残虐なことをする人は殆ど絶無でると、私は固く信じて疑いません
………美味しい魚介類など、食べるものは、他に幾らでも豊富にありますからね。
「万葉仮名の六十二個」の一音節語の解説コーナー
https://blogs.yahoo.co.jp/pqzxcv1936/66138784.html
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江戸時代は、病弱者に力をつけるということで「薬食い」と称して獣肉食いの、効用・効能を喧伝した。
江戸の麹町平河町に、獣肉薬食いの 「山奥屋= (俗称) ももんじ屋」があった。
店頭には、図のように獣肉の、「鹿・狐・狼・熊・狸・かわうそ・いたち・猫・山犬」まで並べていた。
狐は、デキもの。
狼は、五臓に力を。
狸は、痔の病気。
鹿は、産後に。
熊は、虚弱体。
猿は、マラリヤ。
猪は、五臓・テンカン。
………などの効能が喧伝されていた。
牛を、冬牡丹。
鹿は、モミジ。
猪は、山クジラ。
………などの隠語で呼ばれた。
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「ももん」とは。
「もmo(甲類)」=腿の形態・盛り上がった形態」。[用語例・腿・桃・藻・森・燃]
「ん=み」。髪挿し・かみさし⇒かんざし。神主・まみぬし⇒かんぬし。
「みmui(乙類)前母音脱落⇒mi=躍動して射る形態=雷・神(カムイ)」
「が=荒々しい形態。がたがた・がりがりの粗野・粗雑な形態」。
ガッとむき出した獣の口をイメージできる語。
ももんが
=「ももん=〔もも+み〕=腿の身・腿肉」+「が=粗野」
=粗野な腿肉=獣の腿肉。
「ももんじ」の「じ」は「宍・しし」=獣の肉のこと。
「猪・ゐのしし」・「鹿肉・かのしし」。
「シ・ジ=下方向の形態・じべた・足・知る・敷く・死に・腰・岸」。
故に「しし・獣の肉」は「死んで下に」横たわる獲物の肉を意味する語である。
この語は縄文時代の狩猟生活の痕跡が刻まれた「生活用語」である。
「やまくじら・山鯨」は猪の肉の隠語で、この看板を掲げて肉料理店を出していた時代はペリーが来航した安政時代である。
江戸の市内では獣肉料理屋(ももんじや)があったが、毛嫌いする人々も多かった。
しかし、肉の味を知ると病みつきになる。
石器時代は獣の肉は重要な生活の中心的食料であった。
野山や里に出没する猪は今日でも非常に多く、手に負えないくらいに繁殖している。
猪や鹿と日本人の関わりは、全国で出土した石鏃の膨大な量を見れば解る。
三内丸山遺跡の落とし穴の数や規模からすると、明らかにイノシシやシカなどの大型獣を獲得するための大掛かりな装置であることが判る。
0926
安見知之 和期大王波 見吉野乃 飽津之小野笶 野上者
跡見居置而 御山者 射目立渡 朝獵尓 十六履起之
夕狩尓 十里蹋立 馬並而 御獵曽立為 春之茂野尓
やすみしし わごおほきみは みよしのの あきづのをのの ののうへには
とみすゑおきて みやまには いめたてわたし あさがりに ししふみおこし
ゆふがりに とりふみたて うまなめて みかりぞたたす はるのしげのに
0927
足引之 山毛野毛 御獵人 得物矢手挾 散動而有所見
あしひきの やまにものにも みかりひと さつやたばさみ さわきてありみゆ
あしひきの・野にも山にも み狩人が 矢をたばさんで
狩り場で勢子や犬が騒ぎ立てて獲物を追い込んで狩りをしているのが見える。
この万葉集の歌を読むと、天皇も狩りがお好きのようで、朝狩り・夕狩りと夢中になっている姿が微笑ましい。
捕らえた獲物は当然野宴を開いて大勢で食したのである。
この伝統は、仏教の影響で国からの禁止規制が掛かっても簡単には消えなかった。
日本書紀の天武天皇四年(675年)の天皇の詔で、
四月一日から九月三十日の期間は「牛・馬・犬・猿・鶏」の肉を食べると罪になることが発令されている。
面白いのは「猪」だけは禁止されていない。
そしてこの期間が経過すれば食べても良いということになる。
このことは一律に殺生禁止が不可能であるということを物語っている。
鎌倉中期の辞典である「拾芥抄・下」二十九に、医書として、五畜の味のことが書かれている。
牛は甘い。 猪は塩にがく。 羊は苦く。 鶏は辛く。 犬は酸味あり。
平安時代の公家が肉食したことがバレて、宮中の参内を七十日差し止められたという記録がある。
織田信長の庇護のもとにあったフロイスの「日本覚書」の本に、
「我らは犬を遠ざけ牛を食べる。日本人は牛を避け、薬と称して犬を食う………」
とあり、当時の戦国の世が判る。
しかし公家社会の道教の教えからくる犬に対する穢の恐れや、仏教の殺生禁止の理念で、
表では、獣肉を食することを憚ってきたが、裏ではこっそりと食していたという、
白と黒が重なり合うところにできる、中間のネズミイロの薄暗い歴史があったことだけは、史実として知るべきである。
………文化国家である現在の日本人社会は、江戸時代とは違って、可愛らしい犬・猫などを、決して食べません。
そんな残虐なことをする人は殆ど絶無でると、私は固く信じて疑いません
………美味しい魚介類など、食べるものは、他に幾らでも豊富にありますからね。
「万葉仮名の六十二個」の一音節語の解説コーナー
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