[東京神田] 神田神保町古書店街


神田神保町古書店街
1981年
古書店の数は約100軒。
最近では扱いジャンルの専門分化が進む傾向にあると言う。
■三茶書房
   明治から昭和の近代文学が主。作家の直筆書簡や直筆原稿もある。階段踊り場に置かれた100本ほどの伝統こけしも販売品。
■八木書店古書部
   国文学書、近代文学書が主。
■進省堂書店
   辞書類が主力。辞書と一口に言っても、1000円前後の各国のポケット版辞書から、何十万もするオリジナル版までと幅広い。ロンドン刊の釣り本が目につく。
■慶文堂書店
   歴史・民俗・考古学関係が専門。最近の近世史や郷土史のブームで客層が多様化。各県の教育史などユニークな品揃え。
■矢口書店
   映画・演劇専門。「スクリーン」、「キネマ旬報」、「シネ・ストーリー」等のバックナンバーは完璧。
-ブルーガイド 東京街歩きガイド 1981年版
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1981







1993



私は学生の頃,総合雑誌と言えば「中央公論」と「改造」のことで,この二誌がしのぎを削っていた。
この二誌の論調が世論をリードし,この2冊を読まないと時代に遅れると思われていた。
事実,この二誌に載った論文や小説は,その月の知識階級の話題の中心だった。
河上肇や大山郁夫の専門的な論文,永井荷風の「つゆのあとさき」,谷崎純一郎の「盲目物語」,志賀直哉の「暗夜行路」など,皆この両誌に載ったものである。
その頃はマルキシズム全盛で,文科の学生でも経済学を知らなければ革命に参加できないと言われていたから,私たちは「改造」に連載された河上肇の剰余価値に関する論文や「第二貧乏物語」をまじめくさって熟読した。
はじめのうち,「中央公論」が雑誌会の最高峰後を独占していた。
「中央公論」はその頃すでに50年の伝統(明治32年,「反省会雑誌」を「中央公論」と改名)があり,滝田と言う名編集者の力でマスコミの権威と言われていたのだが,そこへ「改造」が殴り込みをかけて両雄なら並び立つ存在にまでのし上がったのである。
考えてみると「改造」の創立者・山本実彦もなかなかの傑物だった。
そのうち「文藝春秋」も頭角を現してきた。
この雑誌は菊池寛が主催し,文壇色が強いので,文芸雑誌とみなされていた。
「中央公論」は震災の頃からずっと毎号80銭だった。
改造もほぼ同じ定価だったが,突然50銭に値下げして大々的に広告した。
これは「中央公論」に対する挑戦である。
「改造」は以前にも同じようなことをやった
大正15年,1冊1円の「現代日本文学全集」いわゆる「円本」を発行して大成功を収めたのである。
単行本で買えば10円,20円になる分量の小説を,一冊に収めて超安値で売り出したのだから,人気を呼んで暴風雨的な売れ行きになった。
今度はそれを雑誌「改造」でやろうとしたのである。
当然「中央公論」は苦境に立った。
挑戦を受けてこちらも値下げすべきか嶋中雄作社長はさんざん迷ったあげく,これまでの定価を維持することにした。
結果は「中央公論」に有利だった。
「改造」が多少読者を増やしたことが事実だが,そのために「中央公論」が酷く減ったと言うわけでもなかった。
「定価を下げないのはそれだけ内容が充実しているからだろう」と考える読者心理にうまく合致して,部数を維持することができたのである。
酒飲みが,高い酒はうまいと思う心理と同じである。
その頃30銭の違いは大きかった。
コーヒーなら30銭で3杯飲め,本郷座で映画を1回観られる金額だ。
本郷肴町の「天安」と言う天ぷら屋の上丼が30銭だった。
だから「改造」が50銭になったことは,貧乏学生にはありがたかったが,だからといって「中央公論」を買うことをやめるわけにはいかなかった。
この両方の雑誌には昭和初年の日本の「どこへ行くべきか」と知識階級の「いかに生きるべきか」が論じられているのだから,30銭の違いで真理から遠ざかるわけにもいかなかったのである。
しかしこの80銭と50銭の戦いは長く続かなかった。
日本は戦時体制に入ってインフレーションが進んだため,用紙その他の価格が上がってこれまでの定価ではやっていけなくなったのである。
「改造」にとっては良い機会だった。
もともと安すぎたと思ったものの,値上げする理由が見当たらなくて困っていたのに,インフレのために原材料費高騰と言うことだったら,大いばりである。
「中央公論」だって80銭でも安すぎるようになってしまった。
そこで今度は値上げ競争である。
昭和12年9月,「中央公論」は初めて特価1円となり,その後1円が続いたが,その他に年何回か特別号があったから,毎月に平均すると高くなった。
80銭の定価を続けていた頃も,特別号は1円だった。
「文藝春秋」は大正12年,関東大震災の年に発行された。
本文28ページの薄い同人雑誌で定価10銭だった。
その頃タバコのゴールデンバットは6銭で,うどん・そばが一杯8銭だったから,「文藝春秋」は気軽に買える値段で,そのくせ執筆陣は当時の菊池の周りにいる花形作家だったから,どんどん売れ行きが伸びた。
昭和になると「文藝春秋」はその文芸的色彩を薄めて,総合雑誌の道を歩き始めた。
新しく発刊された「日本評論」に「中央公論」,「改造」を加えて「総合雑誌四誌」と言われた。
4つの雑誌の中で「文藝春秋」だけは本文の用紙に手触りの荒いザラ紙を使って定価も他の3誌よりも少し安くしたため,売れ行きは圧倒的に伸びて最高を記録した。
「改造」では成功しなかった安価多売策が「文藝春秋」では見事に当たったのである。
編集のセンスも良かった。
戦後は以上の4つの雑誌のほかに「世界」,「展望」,「世界評論」,「潮流」などの進歩的総合雑誌があった。
その価格はそれぞれの時期の物価水準に比例していた。
しかしこれらのうち現在も発行されているのは「世界」だけである。
このことはそのまま戦後の思想界の大きな変動を物語るものではないだろう。
ー値段の風俗歴史,朝日文庫,週刊朝日編

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1987
神田古書街
駿河台下の交差点に立つ。お茶の水橋から降りてきた明大前通りと,東西に走る靖国通りとが交わる他に,南西斜めに入るすずらん通りがあって車の往来が激しい。
駿河台下から神保町にかけての一体は新刊屋古本を扱う書店が立ち並ぶ本屋街である。
特に古本を扱う店は都内800軒のうち100軒以上がこの街に集まっている。
古本屋街で最も古いのは,明治8年(1875)創業の
高山本店
と明治15年創業の
大屋書房
である。
古本屋街の総本山と言うべきは創業明治36年の
一誠堂
である。
一誠堂の初代は越後長岡の人で代々酒井宇吉を名乗っている。
一誠堂をはじめ神保町には新潟県出身者が多いが,それはここで何年か修行した人が独立して,近くに次々と古本屋を開業していったからである。
一誠堂出身の店をあげると
東洋堂書店,
一心堂書店,
悠久堂諏訪書店,
山田書店,
小宮川書店,
崇文荘書店
などがある。
「書泉グランデ」は一誠堂の酒井宇吉の弟が始めた新刊書の店である。
また「岩波書店」も「三省堂」も元は古本屋から始まった。
しかし100年以上の歴史を持つ古本屋街も駿河台下交差点あたりでは徐々に姿を変えつつある。
靖国通りの北側に面して多くのスポーツ店が新しく立ち並び,春も終わろうというのにスキーを担いだ若い男女が楽しげに歩道を行き交っている。
東京路上細見一,林順信著,1987

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総合雑誌の価格
明治20年 3銭
明治30年 10銭
明治42年 20銭
大正05年 30銭
大正11年 80銭
昭和12年 1円
昭和16年 1円30銭
昭和19年 70銭
昭和21年 2円50銭
昭和23年 25円
昭和25年 90円
昭和27年 120円
昭和32年 150円
昭和42年 230円
昭和50年 420円
昭和52年 490円
ー値段の風俗歴史,朝日文庫,週刊朝日編

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