団塊世代が生まれた頃の昭和22年~昭和23年、銀座にできた洋食屋が一軒、今も昔ながらの味を守っているという。
名前は「グリル銀座スイス」。座席数25。小さいが、昭和の時代の落ち着いた雰囲気を残す店を銀座3丁目に構えている。
特筆すべきなのは、この店の味が「懐かしい」ばかりではないという事実だ。「感動的」なのである。幼い頃目を輝かせたお子様ランチの感動がここにはあった。
日本の洋食屋には三大メニューなるものがあり、ハヤシライス・カレーライス・オムライスの味がその店の格を決定すると言われる。しかし、「グリル銀座スイス」には三大メニューの他に切り札がある。戦後に発明された洋食の傑作「カツカレー」である。
「カツカレー」発祥の地と言われる店が銀座にあると聞いては、我々としては黙ってはいられない。早速、カツカレー問題の調査に入った。すると、この問題に関する決定的な証拠発言が見つかった。何しろ「カツカレー」発明者自身の発言であるから、信用しないわけにはいかない。
「カツカレーが好きな後輩・原よ、カツカレーを発明したのはこの私なのだ。」と豪語するのは巨人軍のスタープレイヤーの一人千葉茂だった。ニックネームが「猛牛」だったので、巨人軍を辞めて近鉄の監督になった時に、近鉄のチーム名が近鉄バファローズに変えられたと言うワイルドな選手である。
その千葉茂をはじめとする巨人軍の面々が、練習を終えて飛び込んだ洋食屋がこの「グリル銀座スイス」だった。
当時は後楽園周辺にろくな洋食屋がなかったのだろう、それに昭和23年当時、スイスは銀座6丁目の並木通り近くにあった。細い路地の奥にある座席17ほどの小さな店だったのでスポーツ選手や近くにある近代映画出入りのスターたちスターたちにとって、安心して食事できる「避難場所」のような場所であったのだろう。
ここへ来て、食べ盛りの野球選手が、店の名物のカレーライスとカツレツを二つ平らげる。ある日、千葉は「構わないから、カレーライスの上にカツレツを乗っけてくれ、一緒に食べるから」と、当時の主人・岡田義人シェフに注文する。
初めは気味の悪い食べ物に見えたが、口に放り込んでみると意外とうまい。瞬く間に巨人軍選手の好物になり、ご主人も試しにメニューに入れてみたところ、一般客にも好評だった。かくしてカツカレーは「グリル銀座スイス」の名物になり、「遠征先でも食べられるようになった」くらい急激に普及した。
しかしカレーライスの上にカツレツを乗せただけのアイデアが、戦後洋食のナンバーワンメニューにのし上がれるはずがない。
「うちでは、にんじん・生姜・玉ねぎ・りんごをすりおろして使うんです。ちなみにつなぎは上等の食パンを裏ごしに入れて入れます。小麦粉は使いません。これが昔の洋食カレーですのよ。」と、現在のご主人庄子門松さんの奥さん静子さんが教えてくれた。
静子さんは、 カツカレーを発明した主人・岡田義人シェフの妹で、ご主人も義人シェフと共に30年間味を守ってきたベテランである。「グリル銀座スイス」は、装飾の草分け・岡田進之介が出資していて、戦後すぐに銀座7丁目で開業した。終戦後復縁した義人さんのために店を開いたわけだ。東7丁目の店はもらい火を受けて全焼、銀座6丁目に店を開き直した。これが昭和23年頃で、千葉をはじめとする巨人軍選手たちが通って来る時期に当たる。六丁目の店はその後長く営業したが、最近の並木通り開発のあおりを受けて閉店、今の三丁目の店が拠点として残った。
「つまり、この味は戦前の帝国ホテルの味と同じなんですね?」
「今でも帝国ホテルに行ってカレーをいただきますとね、ああ、うちのカレーも帝国ホテルのカレーと同じ流れなんだなあと感じますのよ。」と静子さん。
元祖カツカレーが瞬く間に日本を席巻した理由は、洋食の本道に徹した料理だったからなのだ。
時代となる。
(マガジンハウスBRUTUS INTERIOR 1991年号 荒俣宏「ビジネス裏極意」)
#レストラン食堂
gjoJ pc