1967
都電団子坂から本郷台地にはいる。
あまり険しい山ではないが,東西両方を高台に囲まれて,山にはスギ,ケヤキなどの木がこんもり茂り,谷にはきれいな小川が流れている。
川に沿って田んぼがあって,農家が点在している。
谷川は入江に注いで,海に近い部落には鎮守のお宮が立って,村は自給自足の生活をして,一見静かでのんびりした農村風景である。
これがこの場所の上代の姿であった。
谷川は藍染川であったが,今は都電が流れている。
川に沿って田んぼがあって,農家が点在している。
谷川は入江に注いで,海に近い部落には鎮守のお宮が立って,村は自給自足の生活をして,一見静かでのんびりした農村風景である。
これがこの場所の上代の姿であった。
谷川は藍染川であったが,今は都電が流れている。
都電が明神町のほうに通るこの谷間が「根津」であって,
両方の山の東側は上野台,
西側が本郷台,
鎮守の宮は根津権現,
入江は不忍池
となって残っている。
古墳時代の住居跡が向ヶ岡弥生町から発見されて,ここから出土した土器は弥生式土器と名付けられて,その頃の土器を総称する名前となった。
古墳時代の住居跡が向ヶ岡弥生町から発見されて,ここから出土した土器は弥生式土器と名付けられて,その頃の土器を総称する名前となった。
こうした古くからの部落がもとになって,
本郷=もとになった部落
と言う地名が生まれたものだろう。
江戸までは森林だったから「林町」,
マキが千駄もできる林だったから「千駄木町」と言う町名がある。
今は台地が住宅街となっている。
林町は千駄木の一部となった。
団子坂は江戸時代に団子屋があったので名付けられたものだ。
団子坂は江戸時代に団子屋があったので名付けられたものだ。
この坂上からは遠く東京湾の船が見えたので汐見坂ともいった。
坂の近くの汐見小学校はその名前をとったものだ。
明治まではこの坂の菊人形は入谷の朝顔とともに東京名物の1つであった。
秋ともなれば,市内一流の菊作り師が腕を競った。
秋ともなれば,市内一流の菊作り師が腕を競った。
菊人形は坂下の常設店に並べられて,坂は人並みが絶えなかったと言う。
こ坂は夏目漱石の「三四郎」にも出てくるが,フランスから取り寄せた空気ランプで夜間興業して,回転式大パノラマの洋画を背景に飾ったりして,当時としては先端的な興業をしていたようだ。
明治の文豪・森鴎外はこの坂を上りきった左側に観潮楼を建て,当時の文壇に新風を吹き込んだものである。
明治の文豪・森鴎外はこの坂を上りきった左側に観潮楼を建て,当時の文壇に新風を吹き込んだものである。
今は「千田書房」になっている。
その裏は記念公園になっていて,鴎外の胸像が立って,後の壁面には永井荷風の手になる詩碑がある。ここに鴎外の記念図書館が建設された。
ここからの展望は素晴らしく,鴎外の観潮楼ではなくなくとも眼下の藍染川低地から遠く不忍の池,上野松坂屋から下町一帯が眺められて良い展望台となっている。