[東京上野]市街風景



1926


【動画】「Koshu Saho Tokyo Kenbutsu (1926)」

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1910年代



1910年代

 1910年代








1924
近代日本流行歌の成立
流行歌にとっての二〇世紀とは一体何であろうか。
それは「流行り唄」から「流行歌・歌謡曲」という近代化の時代である。
洋楽の手法にもとづいて中山晋平、鳥取春陽らがオリジナルな民衆歌曲を創作したことがまず第一の革命といえる。
レガートな旋律が作られたのである。クラシックという異文化との交流が見られた。
流行歌というものが政治主張・宣伝、ニュース報道からより音楽的なものになったことはこの二人の功績である。
中山は、クラシックの立場から、 鳥取は、街演歌師の世界から流行歌の近代化を果たしたのである。
中山は西洋音楽の作曲技法で美しく日本人の心情をメロディーにし、流行り唄から流行歌への発展に大きな功績を残した。
第二には電気吹込みによるヴォーカル革命が重要な意味をもっている。それは昭和モダンに相応しかった。
これによって、古賀メロディーが一世を風靡し、政治色の濃い明治演歌の伝統をもつ大正艶歌を終焉させ、マイクロフォンを巧みに使った歌手の時代が今日に伝えられたからである。
殊にマンドリン・ギターで民衆歌曲が創作されたことは、流行歌の可能性を広げるものであった。
昭和流行歌は、マイクロフォンを前提にしてレコードを吹込む。
それを前提に企画・製作・表現がある。声楽の正統な解釈(ホールのすみずみに響かせるメッツァ・ヴォーチェ)のもとにしたクルーン唱法でマイクロフォンに効果的な音声をのせた藤山一郎の登場は、まさに革命の一歩だった。
マリア・トル、ヴーハー・ペーニッヒら外国人歌手とに伍して堂々と独唱する豊かな声量を小さいな美しい声にしてマクロフォンにのせる。
古賀政男の感傷のメロディーが感銘をあたえるはずである。
電気吹込みによるヴォーカル革命の波は、太平洋を隔てたアメリカからの波だった。
電気吹込みは、大正十三年、アメリカのウェスタン・エレクトリック社が実用化に成功したものであり、翌年には電気吹込みのレコードが登場している。
明治時代から日本を市場としていた欧米のレコード会社は当然、日本進出を狙う。
国内に製造会社を造ってレコード市場の拡大を志向するのだ。
米国ビクターと英米コロムビアの外国資本の参入である。
これがアメリカニズムの影響を受けた消費文化・昭和モダンの需要を満たし、日本の流行歌の構造を根底から変えてしまった。
つまり、レコード会社が企画・製作・誇大宣伝することにより、大衆に選択させるシステムが登場したのである。
従来の街頭で流歩いていた演歌師姿は消えうせ、洋楽を身につけた音楽家が大衆音楽の主流となった。
西洋音楽の手法に日本人の肌合い・情緒・民衆心理を融合させたこの近代流行歌は、戦前・戦後の昭和歌謡の源流となるのである。 

雑学の世界
http://www.geocities.jp/widetown/japan_den/japan_den016sub.htm









1942
湯島の白梅
作詞:佐伯孝夫、作曲:清水保雄、唄:小畑 実・藤原亮子
   湯島通れば 想い出す
   ・・・
   出れば本郷 切通(きりどお)し
   あかぬ別れの 中空(なかぞら)に
   鐘は墨絵の 上野山
文豪・泉鏡花が明治40年(1907)元旦から4か月間、『やまと新聞』に連載した小説
『婦系図(おんなけいず)』
をテーマとした歌。
歌自体は、昭和17年(1942)7月公開の
東宝映画『婦系図』(マキノ正博監督)
の主題歌として作られました。
『婦系図』は、尾崎紅葉の『金色夜叉』、徳富蘆花の『不如帰(ほととぎす)』とともに、明治の三大メロドラマともいうべき作品で、大ベストセラーになりました。3つとも、人口に膾炙(かいしゃ)した名ゼリフが含まれていることで有名です。
『金色夜叉』では、熱海の海岸での貫一のセリフ、『不如帰』では、逗子(ずし)の海岸で浪子が夫・武男にいう
「なおりますわ、きっとなおりますわ、――あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう! 生きたいわ! 千年も万年も生きたいわ!」
というセリフ。
『婦系図』では、東京本郷の湯島天神社頭で、早瀬主税がお蔦と交わす次のセリフ。
「早瀬 月は晴れても心は暗闇だ。
………お蔦 切れるの別れるのって、そんな事は芸者の時に云うものよ。……私にゃ死ねと云って下さい」
これらの名セリフは、かつてのラジオ時代には漫才のネタとして盛んに使われました。
私も、子ども時代に3つともラジオで覚えました。
のちに(たぶん高校のころ)『婦系図』の原作を読んだとき、このセリフや場面がなかったので、不思議に思った記憶があります。
そのときは、たぶん芝居か映画にした際に付け加えられものだろう、と思っていました。
今回調べてみたところ、まさにそのとおりで、明治41年(1908)9月、新富座で初演された際、脚色者の柳川春葉とお蔦を演じた喜多村緑郎が二人で付け加えたものだということがわかりました。
泉鏡花はこの脚色が大変気に入ったようで、大正3年(1914)に、この別れの場面だけを一幕物の脚本
『湯島の境内』
として書き下ろしています。
原作は早瀬主税が師によってお蔦と別れさせられる悲恋に、権威主義への反抗を絡ませて描いた小説ですが、これには鏡花の実人生が色濃く反映されているといわれます。
すなわち、鏡花は神楽坂の芸者桃太郎(本名:伊藤すず)と同棲したものの、それを文学の師・尾崎紅葉から反対されて、やむなく別れたことがあります。のちに正式に結婚しましたが、このときの経験が小説に投影されているというのです。
2番に出てくる筒井筒は、筒井(筒状に丸く掘り抜かれた井戸)の上部に取り付けられた木枠のことで、
『伊勢物語』
などでは幼馴染みの男女を象徴する言葉として使われています。 
■別れのブルース
作詞:藤浦洸、作曲:服部良一、唄:淡谷のり子
   窓をあければ 港が見える
   ・・・
   恋には弱い すすり泣き
   二度と逢えない 心と心
   踊るブルースの 切なさよ
昭和12年(1937)のヒット曲。
ウ~ム、昭和モダニズムの匂いがする……。
モダニズムは、一般的には
「都会的・近代的な感覚を示す芸術上の諸傾向」
ですが、日本では、大正~昭和初期に、欧米の思想・芸術理論・様式などを積極的に取り入れて、現代人としての新しい感覚を表現しようとした運動や傾向を指しています。
このころ、ジャズ、ダンス、カフェなどのモダニズム文化がサラリーマンや知識人をとらえる一方で、庶民は、剣劇映画、落語などの大衆文化に惹きつけられました。蓄音機とレコードが登場し、流行歌全盛時代が訪れ、『君恋し』『東京行進曲』などの明るい曲がヒットしました。
しかし、不景気が深刻化し、大陸の戦火が拡がるにつれて、
『酒は涙か溜息か』
『影を慕いて』
といった哀調を帯びたメロディが人々の心をとらえるようになりました。
この歌を聞いていると、ホテルのフランス窓越しに暗い波止場を見下ろしている女性のシルエットが浮かんできます。
1番のメリケンはアメリカンのなまり。メリケン波止場はアメリカ船の着く波止場で、転じて外国船の着く波止場。
横浜港と神戸港のものが有名。
2番の「やくざ」は、ヤーサマ(ヤッチャン)ではなくて、荒事や腕力沙汰を指しています。
腕力が強ければ、当然、ヤーサマにも強いでしょうが。
ブルースの歴史については、
『思い出のブルース』
の蛇足をご覧ください。 
 
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