[鉄道] 地下鉄開業




1925年
地下鉄(東京地下鉄道K.K.)開業
早川徳次―
明治14年(1881年) 山梨県生まれ。早稲田大学法学部卒業。
後藤新平総裁に憧れて満州鉄道に入社。次いで鉄道院中部鉄監局にうつり、
後、新橋駅で改札係。
30歳の時に、同郷の先輩・根津嘉一郎に招かれ、佐野鉄道(現東武佐野線)の責任者。
次いで高野登山鉄道(現・南海電鉄高野線)支配人に抜擢されて再建。
官僚的重役と衝突して退社。
大隈重信総理の紹介で鉄道院属托となり渡欧視察。
ロンドンで地下鉄を視察、狂喜して帰国、地下鉄建設に人生をかけ出した。
しかし相手にされない。
「データに勝る説得なし」
ポケットに白いインゲン豆と黒豆を入れて銀座の街頭などに立ち、それカウンターとして使い、
交通量を調査。
毎晩、これを妻と一緒に数えて結論をだした。
浅草~上野~銀座~新橋。
この区間を結べば乗客は多く採算がたつ。
当時、最大の盛り場であった浅草と銀座。
それを上野と新橋で国鉄につなげるアイデアだった。
後援を求め、政財界要人を訪ね歩き、金を使い果たして近所の酒屋で電話を借りて用を足すほどだったという。
こうした苦心の末、「東京軽便地下鉄道株式会社(東京軽便地価鉄道K.K.)」の名前で、
高輪南町~烏森町~上野広小路~浅草公園
を本線とする地下鉄建設案を提出。
大正6年(1917年)に東京市会で賛成、鉄道院に申請。
この動きに乗じて、武蔵野電気鉄道株式会社(現・小田急)、東京鉄道なども地下鉄建設を申請したが、
ついに大正8年(1919年)11月、早川の東京軽便地価鉄道に免許がおりた。
そこで増資して「東京地下鉄道株式会社(東京地下鉄道K.K.)」と改名、
鉄道土木の先覚者・古市公威を社長に据え、早川は常務、根津は取締役となった。
しかし関東大震災がおきて申請路線を変更、
上野~浅草
2.2kmから建設を開始、
いよいよ大正14年(1925年)9月27日に起工、難工事の末に
昭和2年(1927年)12月30日、「東洋唯一の地下鉄道」をキャッチフレーズに営業を開始した。
この日は早朝から乗客が殺到、
上野~浅草 区間4分50秒、運賃10銭の地下鉄は超満員になり、
約10万人を1日で輸送、
どんどん運びこまれる10銭玉の袋の山を早川は抱きしめて男泣きに泣いたという。
―地下鉄 ただいまモグラ族1000万人(コーキ出版,1978年刊)

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木村荘八画・文『新東京風景』より「三、地下鉄終点」として描かれている三越前駅のスケッチ、
『経済往来』第7巻第9号(日本評論社・昭和7年9月1日発行)所載*3。

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