1962
寺島蝸牛庵
年譜によると,幸田露伴が鍛冶町から寺島村大字寺島1716番地にうつったのは明治30年(1897年)となっている。
その1716番地というのは,「甲州屋」という酒類商を営む雨宮千松という人の裏離れになったような家で,ここで婦人喜美子との間に長女歌(明治34年,1901年),次女文(明治36年,1903年),長男成豊(明治40年,1907年)が生まれ,
露伴の文名もいよいよ高く,門弟として田村松魚,神谷鶴判らがおり,そこで書生として同居していた。
明治40年(1907年)になると露伴は同じ寺島町の新田にうつり,そこには小石川にうつる大正13年(1924年)まで住んだ。
以上の明治30年(1897年)~大正13年(1924年)までの26年間が露伴の寺島町時代であり,寺島町の蝸牛庵時代であった。
前著「新東京文学散歩」でも寺島町蝸牛庵の事を書いたが,当時の私には調べる便もなかったのは事実で,なおもう一歩の努力と根気が足りなかったのは事実であった。
しかし今年(昭和27年,1962年)になって,思い切ってその調べにかかり,幸田文子さんの協力もあってようやくその本望を達する事ができた。
寺島町の白鬚神社から桜堤道のバス道路を向島公園にむかってすすむと,左手に子育地蔵がある。
その前から左の町にはいる下り坂は地蔵坂だ。
それを下らずに向島公園に沿ってあるく。
すると間もなく右手に大きな邸宅がみえる。
これは元の大蔵喜八郎の向島別荘で,いまは「大倉」という高級料亭だ。
このあたりの人はこれを今でも「大倉別荘」と呼んで,バスの停留所もその名前になっている。
ようやく大倉別荘屋敷がおわったその先の左側に,さっきの地蔵坂よりももっと急な坂道がある。
このあたりは戦災をまぬがれた寺島町の一角で,ほとんど昔のままといった感じだ。
坂は途中正面の家で左にほそく右に大きく2つに分かれているが,その右の大きい坂のやや左によった正面に,
いかにも古風ながっちりした2階建ての雑貨商がある。
酒・タバコ・その他を売る老舗らしく,表札には「雨宮庄兵衛」とある。
現在の番地は44番地だ。
これが,当時の寺島町1716番地の「甲州屋」で,この店の左横に門があり,裏離れのようになった50坪ほどの二階家がある。
露伴が最も盛んな時代の十年間を暮らした蝸牛庵の名残である。
「甲州屋」の店主庄兵衛さんは三代目の庄兵衛さんで,
初代は明治維新の時代に青山から士族を捨ててうつってきた人だという。
露伴が蝸牛庵を借りていたころは,「甲州屋」は二代目の主人で,現在の庄兵衛さんはそのころに生まれた人だという。
そして幸田文子さんとは遊び友達であったという。
さいわい,二代目の妻女にして当代店主の母にあたるむめ(梅)さんは76歳でまだ元気であった。
むめさんは昔の露伴の書斎であった裏の10畳の部屋にひとりつくねんと座って暮らしている。
「甲州屋」の店からはいると,勝手を抜けてすぐに蝸牛庵の10畳の書斎の前にでる。
表門からも玄関脇にいくと同じ場所にでる。
何しろ家の前の坂をみればわかるが,この辺りは地がひくく,頻繁な洪水で有名なところである。
形だけは昔のままのこの蝸牛庵もそうした湿気のために荒れているのが一見してわかる。
雨宮むめさんは眼のみえないままに,じっと顔をあげて,いろいろと思い出,それも心から一家をあげて尊敬していた露伴やその婦人喜美子の思い出をはっきりした若々しい声で話す。
土蔵や茶室を除いては露伴の思い出を語るいろいろなものが残っているが,私の気をひいたのは,
裏の廊下に面した壁際に3尺ばかりの開き戸のついた物置があって,そこは当時露伴が興味をおぼえ凝っていた写真の現像室であったとの事だ。
その中にはいって戸をしめると,息もつまるような真っ暗の中に壁のほうから赤い光が差す。
見れば5寸四方の赤いガラスだ。
現像用の採光窓で,露伴自ら壁に穴をあけてつくったそのままに,白い埃をつけたまま,今もなおその日の赤い思い出を語り続けているというわけだ。
むめさん,庄兵衛さん,甲州屋の皆さんに別れをつげて蝸牛庵を出る。
そしてふたたび大倉屋敷の坂道に立って,あらためて甲州屋の全貌と横の蝸牛庵のたたずまいを見る。
蝸牛庵の門脇には昔は風呂屋があって,前の坂道を下ってきた荷車などが,運転をあやまって風呂屋の前の塀にぶつかり,棍棒を風呂場の中までつきさして入浴中の露伴を驚かせたという。
そこに今は風呂場はないが,形は当時のそのままだ。
そのままといえば,こうして坂から見る蝸牛庵も当時そのままであるのに私は驚かないわけにいかない。
最近見つけた明治40年の洪水にあった蝸牛庵の写真と寸分違っていないのは,物のほろび易く変わり易い東京としてはまことに珍しい事だ。
―野田宇太郎著「東京文学散歩」,角川文庫,
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1962
白鬚橋(しらひげばし)をわたると向島である。
右の堤防は言問橋付近につづく向島桜堤。
その川岸の端にある,昔は桜並木のあった堤道のようなひなびた焼け残りのような町筋をしばらくゆくと,白鬚神社が左下にこんもりとした森に包まれるように残っている。
その前から左へ町中の小路をゆく。
幸田露伴の寺島町蝸牛庵は丁度このあたりにあったときく。
―野田宇太郎著「新東京文学散歩」,角川文庫,
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佃島付近,1920