[東京本郷] 本郷弓町,理髪店アライ/2階下宿(石川啄木旧居)

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[東京本郷] 本郷弓町,理髪店アライ/2階下宿(石川啄木旧居)
さて春日通に面した 理髪店『アライ』 というと「ああアレでしょ、ホラなんていったっけ啄木の・・・」という声が、通の方から聞こえてきそうです。
その『喜之床』を左に曲がる「現・野口米店」がその反対角。
そして次の曲がり角を右に曲がる。 角から二件目、此処にはつい最近迄、最高裁判所裁判官の阪本さんの愛した 「たけや豆腐店」 が在りました。
大雑把に言うと、豆腐屋の角からそのまま進行して行き左に日基 弓町本郷教会の敷地が切れ、大楠が左手に広がるその角までが、病院の南側の一辺である。
熊本バンド、明治の伝道者として名高い、髭の海老名弾正先生はあの「新人」を世に出し、後同志社総長も勤め、奥様の海老名美屋婦人(父・横井小楠)は「新女界」に係わり矯風会に繋がって行きましたそれぞれの精神面での御一新ゆかりの地。ここは、プロテスタント教会でパイプ・オルガン演奏を気軽に聞けます。
毎月2回、隔週の火曜・時間12:10~13:00 時間内、出入り自由・入場無料 「ひるの憩い」などはTVでも紹介されて御存知の方も多いのでは、ないでしょうか。昔、刃物を持った強盗が入ったのに、ソレを一撃!! で改心させた有名な定家修身牧師が牧会しておられ質の高い暖かい心の伝道をされ喜ばれていました。 春日通りの幅。時のうつろいと共に風景が変わり、世代が変わる昨今なぜ、そのような空間が残ったのでしょう。
実はその右角には長い事石造りの家が存在し少し通りより中に入っているお陰で、それが幸いして、市電が開通するまでの『旧・春日通』の空間道幅を平成の今でも感じ取ることが出来る訳です。
ここ旧春日通を、昔の先達が往来し、坂下で待つ「押っぺし/立ちんぼ」に助けてもらって此処まで大八車を上げ、駄賃を渡し、この角を曲がった時はさぞかしホットしたことでしょう。 この幼い頃からいつも出入りしていた弓町幼稚園入口前、この小さな幅の道が実は、昔のメイン通りの一つだと発見した時は、何か感慨無量な物が体を突き抜けました。
もっとも春日から真砂坂上に達するまでは急な坂なので、重い荷をつんだ大八車等はもう一本、江戸城寄り(水道橋側)壱岐殿坂を利用したと見る向きが多くその方が無難かもしれませんね・・・。(与) 弓町本郷教会の事はまた改めて、本郷座の近く東竹町にあった「本郷会堂(弓町本郷教会の前身)」を、横井先生の項で紹介する約束をして離れ、大きな楠に敬意を表しつつそこを右に曲がり、春日通り(真砂坂上の信号)を渡り歩をふるさと歴史館に向かってまいりましょう。 写真は★航空写真☆ローカル誌及び「アライ理容案内・店頭」より。※ふるさと歴史館で、良質な知識と資料、そして案内地図を手に入れさあ本格的に出発です。
ふるさと歴史館から出て左へ、もうそこは三四郎に出てくる、美禰子の家のモデルとなった元秩父セメントを創業した「諸井邸」です。先程、ふるさと歴史館で観て来た、長屋門です。昔はその個々の治安を維持する為、門限時間があり住んでいる者はみな、門限時間に間に合うように居酒屋からふっ飛んで帰って来たようです。当時の長屋は、小集落毎に門が付いていました・・。なになにそんな事より牛乳配達の瓶を入れる壁に掛かっている青い明治や黄色い森永の木製ケースの方が懐かしいって。フムフム、本当にそうですね。まだまだじっくり見ればいろんな物が発見できる事でしょう・・・。では、進んで右手に公園が付いた真砂図書館が、さらに進むとホラ、車は行き止まりスッテンコロリンの「炭団坂」に行き当たりました。 アッ何かもう案内板をそれも二つも見つけてしまいましたね。 そう一つは階段途中の炭団坂の案内板、もう一つはスグ上の坪内逍遥や正岡子規が関係する「常盤会」跡の案内板です。今は、縁あって「日立の研修所」やはり学習する所になっており施設に入っている店は、「逍遥」という名前を大切に使っております。さて欄干の上から今も昔も変わらない菊坂台地を見渡すことが出来、弓なりになっている家屋群を昔の写真のようにとって見ることが出来るでしょう。 そう右前方の足元近くにはもう、 「宮澤賢治と本郷・菊坂下宿先」 が、そして左には美人薄命、イヤ五千円札「にごりえ」の 「樋口一葉が住んでいた場所、一葉井戸が在ります。」 顔を上げ正面から1時2時の方向に、後で行く「菊富士ホテル」の跡があります。 そこは現在、レンガ色の部分とコンクリの部分がある 「水のオルガノ」 の建物の右奥白い部分で、長泉寺の山門横右延長線上に見えます。 本郷界隈 古い資料による散歩 http://www.geocities.jp/jf1zhe/KasugaSt.html http://www.geocities.jp/jf1zhe/ichiyouki1.html http://www.geocities.jp/jf1zhe/index10000.html








1910
本郷喜之床
4丁目47番地
旧所在地 東京都文京区本郷
建設年代 明治末年(1910)頃
この家は東京本郷弓町2丁目17番地にあった新井家経営の理髪店喜之床で、
二階二間は石川啄木が函館の友宮崎郁雨に預けていた母かつ、妻節子、長女京子を迎えて明治42年6月16日から東京ではじめて家族生活をした新居である。
啄木はそこで文学生活をしながら京橋滝山町の東京朝日新聞社校正部に勤めていた。
明治43年9月にはそこに本籍を移し、10月には長男真一が生まれたが間もなく夭折した。
そして12月に出版したのが啄木の名を不朽にした処女歌集「一握の砂」である。
それはまた明治の暗黒事件として啄木の思想にも影響した大逆事件が起きた年でもある。
その頃から母も妻も啄木も結核性の病気になり、二階の上り下りも苦しくなって明治44年8月7日小石川久堅町の小さな平家建の家に移った。
明治45年3月7日にはそこで母かつが死に、翌4月13日には啄木もまた母の後を追うように27歳の薄倖の生涯を閉じたのである。
この建物は明治末年を遡り得ないと思われる。江戸の伝統を伝える二階建の町家の形式を踏襲してはいるが、散髪屋としてハイカラな店構えに変化してきている。
流行に左右され、清潔であることが売り物となる理髪店の常として、
この店の内部も著しい改造が加えられていた。
建物の柱等に残る痕跡調査を基に、できる限り創建当時の姿に復し、
店内の飾り付けは、新潟にあった同時代の店「入村理髪店」から贈られた鏡や椅子等を置いて整えた。
石川啄木「一握の砂」より

明治村
http://www.meijimura.com/enjoy/sight/building/4-47.html








1910
■釧路から東京へ
石川啄木自身の日記:明治41年3月25日の日記にはこう書かれている。
「啄木は釧路の新聞記者としてあまりに腕がある。筆が立つ。そして 歳が若くて男らしい。男らしいところが釧路的でならぬ欠点である。早晩,啄木の釧路を離れるべき機会が来るに違いないというような気がしきりに起こる」
大変な自惚れを書いたものである。しかし事実は腕の立つ新聞記者ではあったと思うが,このように自分のことを自信たっぷりにぬけぬけと書くところがいかにも石川啄木らしいのである。ともあれこのようにして北海道釧路を去るために石川啄木はいろいろと心を痛めていた 。この頃の啄木は寝汗が出たりノイローゼ気味であった。
明治41年4月2日,新聞の出帆広告を見ていると「坂田河丸が2日午後6時出帆。函館新潟行き」とあったので、啄木はこれに乗ろうと決心した。 宮崎郁雨の計らいで石川啄木は自己の運命を東京に開くことになった。
■上京,床屋2階での下宿暮らし

京橋の滝山町の新聞社
灯ともる頃の忙しさかな
浅草の凌雲閣の頂に
腕組みし日の長き日記かな
働けど働けどなおわが生活楽にならざり
じっと手を見る
実務には役に立たざる歌人と
われを見る人に金借りにけり
友も妻もかなしと思うらし
病みても尚
革命のこと口に絶たねば

明治4月24日の夜9時に酒田川丸に乗船し函館を後にした啄木は横浜に向かった。
4月27日,船は横浜港に着いた。一泊。28日午後3時新橋駅着。啄木は人力車を千駄ヶ谷にある新詩社に走らせた。久しぶりに与謝野鉄幹・昌子夫妻と歓談。与謝野鉄幹は年老いていた。
啄木は新詩社から本郷菊坂の赤心館に移動。ここに言語学者の金田一京助が下宿していた。金田一は盛岡中学校時代の先輩であって,何やかやと世話してくれた人であった。啄木は金田一の友情でその下宿に同宿することとなったのである。生活費なども彼の世話になった。
翌明治42年3月,ようやく朝日新聞社校正係に就職。月給25円。朝日の編集長が同郷人でその人の世話であった。函館の老母が「早く東京に呼んでくれ」と言ってきた。啄木には長年の借金もあってなかなか母たちを呼び寄せるわけにはいかなかった。やるせなさに浅草12階下の売笑町に遊んだ。
この時の歌が
花の浅草の夜の賑わいに紛れ入り~
などの歌である。 啄木は凌雲閣で自殺を思うこともあったという。
この年の初夏,函館から老母はじめ家族が上京。本郷弓町の床屋の2階二間を借りた東京生活が始まる。楽しいはずであったが義母との不和,生活苦,妻節子は京子を連れて盛岡の実家に帰ってしまった。やがて妻は帰ってきたが父も上京して5人の生活は苦しい 。

戯れに母を背負いて
そのあまり軽きに泣きて三歩歩まず
燈影なき部屋に我ありと
父と母
壁の中より杖つきて出づ
かなしくも
夜明くるまでは残りいぬ
息きれし児の肌の温もり
労働者・革命などという
言葉を聞き覚えている5歳の子供かな
真白なる大根の根のこゆる頃に生まれて
やがて死したる子供あり
悲しきは我が父
今日の新聞読み飽きて
庭に小蟻と遊べり
茶まで断ち
わが平腹を祈りたまふ
母の今日また何か怒れる
寝つつ読む本の重さに疲れたり
手を休めては物を思える
今日もまた胸に痛みあり
死ぬならば故郷に行きて死なむと思う
枕辺の障子開けさせて
空を見る癖も作るかな
長き病に

すべてが啄木の肩にかかる一家の生活。日本の家族主義。苦しい現実。啄木は目を社会と生活に向けた。歌は浪漫的情緒と感傷を伴いつつも生活に密着した新しい歌となる。
処女歌集「一握の砂」は明治43年秋,東雲堂から刊行される。
ー名作の旅/石川啄木,保育社カラーブックス,

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1910
石川啄木
石川啄木が北海道の放浪から最後に上京したのは明治41年の4月ももう終わろうとする28日だった,
「海路を横浜に上陸して,汽車で新橋に行き,そこから車をやとって千駄ヶ谷の与謝野寛の家にまづ旅装を解いた」
とその日の日記にもある。
それから数日の後には本郷菊坂の「赤心館」という下宿に移り,
いよいよ東京を永住の地とする新しい生活がはじまったのだったが,
彼を赤心館に誘ったのが盛岡中学の同窓生で啄木を与謝野の「明星」に紹介した金田一京介であった。
しかし,その日その日の生活に事欠くような状況で,
その頃,啄木が鴎外におくった手紙にあるように,
「長編など書きたいが,それを書いているうちに飢えねばならない」
といった状況であったようだ。
そうした中でやっと書き上げても,その小説は原稿料にならない事が多かった。
そうした逆境への苦悩は,詩人の創作欲を反抗的にそそる場合があるもので,
啄木の仕事に最も脂がのりはじめたのも,この赤心館時代であった。
彼は処女歌集「一握の砂」の後に収めた数々の歌などをふたたびここで書き始めたのである。
その年の9月になると,啄木は下宿の家賃不払いで赤心館を追われ,啄木は金田一とともに,同じ本郷森川町の新坂といわれる急な坂の上にある三階建ての大きな下宿屋「蓋平館別荘」に移った。
啄木の部屋は3階の3畳半という型破りな狭い部屋ではあったが,窓をあけると,眼下に兵器工場をはじめ小石川方面が見渡され,天気のよい日には富士山もみえた。
同時にそこで啄木が書き始めた小説「島影」が友人の栗原古城の世話でどうやら物になることになって,11月1日から東京毎日新聞に連載されるようになったのである。
その「島影」の連載が始まり,ようやく啄木の生活にひとすじの光明が差した頃に,啄木のそれまでの文学をはぐくんでくれた雑誌「明星」が100号で廃刊となり,
過去約8年の幕を閉じた年でもあった。
「明星」にかわる新雑誌「すばる」が同人らによって刊行された。
啄木はその編纂に関わり,下宿屋「蓋平館別荘」はその事実上の編集室であった。
しかし啄木の社会主義的思想への系統,文学に対する考えの違いから「すばる」にかけた文学的理想は破たんをきたす。
文筆活動に不安を感じた啄木は朝日新聞社への就職活動をし,明治42年に抗生部に就職する。
月給は25円であった。
北海道の親が突然上京してきた事もあり,啄木は下宿屋「蓋平館別荘」を出て,本郷弓町2丁目26番地の「新井」という人の営む「喜之床」という理髪店の二階に移り住む。
おりしも明治43年6月の大逆事件で,幸徳秋水一派が無実にも近い罪で大量検挙された。
朝日新聞にいた啄木にはそれがよくわかり,啄木の正義感は燃え上がった。
「すばる」の出資者であり同人であった平出修がこの事件の被告弁護人として立っていた。
啄木は平出を通じて事件をふかく知り,同時に啄木の思想には社会主義の意識が盛りはじめた。
「人民の中へ(ウ・ナロウド)」は彼の文学の合言葉になった。
同年10月には長男真一が誕生。
しかし生まれて27日後に死亡。
わかい父親の啄木の心ははげしい肉親のかなしみに動揺した。
その直後に啄木は自身の身体に異常を感じ,腹膜炎とわかり,ちかくの帝大病院に入院。
さらに妻の節子が胸を病んで発熱。
一家は喜之床の下宿暮らしから,独立した一戸建てを求めて,小石川久堅町74番地の平屋に移住。
しかし新居では,さらに老母が末期の結核で病床の人となり,翌45年3月に没。
啄木は北海道の放浪から帰った老父,胸を病んだ節子,愛娘京子をのこして没した。
享年27歳であった。
啄木の東京での生活はわずかに4年であったが,その4年は常人の40年に匹敵する重要な期間であったろう。
―野田宇太郎著「東京文学散歩」,角川文庫,

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1910
石川啄木
(我を愛する歌)
東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる
頬につたふ
なみだのごはず
一握の砂を示しし人を忘れず
はたらけど
はたらけど猶わが生活楽にならざり
ぢっと手を見る
(手套を脱ぐ時)
かなしくも
夜明くるまでは残りゐぬ
息きれし児の肌のぬくもり

明治村
http://www.meijimura.com/enjoy/sight/building/4-47.html









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夏目漱石『こころ』 私はとうとう万世橋を渡って、明神の坂を上がって、本郷台へ来て、それからまた菊坂を下りて、しまいに小石川の谷へ下りたのです。 下町文京区 http://book.geocities.jp/urawa0328/sitamati/kikuzaka.html **************************************** 菊坂界隈~樋口一葉の菊坂旧居跡~ 本郷3丁目交差点から本郷通りを行く。 本郷4丁目と5丁目の間の坂が菊坂である。 本郷3丁目の四ッ角で乗り物を捨て、本郷通りを東大赤門の方へ70メートルほど歩み、文京センターの角を左へ折れる道を菊坂の通りという。 魚屋、八百屋、菓子屋、葬儀屋、そば屋、せんべい屋、本屋、 それから何を売っているのか得体の知れない構えなど、およそ東京のどこにでもある。 ありふれた映えないその通りを、300メートルほどもうねうねと行く。 近藤富枝『本郷菊富士ホテル』 震災にも戦災にも焼け残り、明治 ・大正の面影を残している。 菊坂 本郷4丁目と5丁目の間 「此辺一円に菊畑有之、菊花を作り候者多住居仕候に付、同所の坂を菊坂と唱、坂上の方菊坂台町、坂下の方菊坂町と唱候由」 (『御府内備考』) とあることから、坂名の由来は明確である。 今は、本郷通りの文京センターの西横から、旧田町、西片1丁目の台地の下までの長い坂を菊坂といっている。 また、その坂名から樋口一葉が思い出される。 一葉が父の死後、母と妹の3人家族の戸主として、菊坂下通りに住んだのは明治23年(1890年)であった。 今も一葉が使った掘抜き井戸が残っている。 一葉の父は則義。 一葉の父則義は、夏目漱石の父直克と東京府で同僚だったそうだ。 歴史・文学上で則義の名は樋口一葉の父以外に聞いたことがない。 寝ざめせしよはの枕に音たててなみだもよほす初時雨かな 樋口夏子(一葉) 菊坂は夏目漱石の『こころ』にも一度だけ出てくる。 私はとうとう万世橋を渡って、明神の坂を上がって、本郷台へ来て、それからまた菊坂を下りて、しまいに小石川の谷へ下りたのです。 菊坂を下っていくと、旧菊坂町の案内があった。 旧菊坂町(昭和40年までの町名) この辺一帯に菊畑があった。 坂を菊坂といい、坂下を菊坂町と名づけた。 元禄9年(1696年)町屋が開かれ、その後町奉行支配となった。 町内には、振袖火事の火元の本妙寺があった。 下通りには、女流作家樋口一葉が住んだ。 現在旧居跡には使った掘抜井戸が残っている。 下町文京区 http://book.geocities.jp/urawa0328/sitamati/kikuzaka.html
pp651880000330.jpg 樋口一葉の菊坂旧居跡
pp651880000335.jpg 伊勢屋質店
掘抜井戸 樋口一葉の菊坂旧居跡 文京区本郷4-32・31 一葉は、父の死後母妹と共に、次兄虎之助のもとに身を寄せた。 しかし、母と虎之助との折り合いが悪く、明治23年(1890年)9月、3人は 旧菊坂町70番地(この路地の菊坂下道に向かって右側) に移ってきた。 ここは安藤坂の萩の舎(一葉が14歳から没するまで通った歌塾)に近いところであった。 明治25年(1892年)5月には、この路地の反対側の下道に面したところ(菊坂町69番地)に移った。 ここでの2年11ヶ月(18~21歳)の一葉は、母と妹の3人家族の戸主として、他人の洗濯や針仕事で生計を立てた。 おそらく、ここにある掘り抜き井戸の水を汲んで使ったと思われる。 きびしい生活の中で、萩の舎の歌作、それに必要な古歌や古典の研究をし、上野の図書館にも通い続けた。 そして、萩の舎での姉弟子田辺花囿(かほ)の影響で、小説家として立つ決意をかため、 半井桃水(なからいとうすい) に小説の手解きを受けた。 明治25年(1892年)3月「武蔵野」創刊号に小説『闇桜』が掲載された。 また、小説と共に貴重な日記はここに住んだ明治24年(1891年)4月1日から書き始められている。 いわば、ここは一葉文学発祥の地と考えられる。 菊坂上通りに、一葉や母のよく通った質屋が今もあり、その土蔵は一葉当時のものである。 -郷土愛をはぐくむ文化財- 文京区教育委員会 下町文京区 http://book.geocities.jp/urawa0328/sitamati/kikuzaka.html
 『昔空間散歩の薦め』 本郷 -菊坂の与太郎 『一葉忌』 本郷三丁目 界隈【H20年版】 <起点御案内> ・「法真寺」 桜木の宿より出発は 【H21年版】第30回一葉忌へ □プロローグ 2007年秋、櫻木神社を調査している際石灯籠を眺めている方をお見受け致しました。 お声を掛けると清瀬の郷土史会の方、鳥居の造詣について興味のあるお話を聞かせていただきました。 それが縁で、メールのやりとりもありお友達になっていただきました。 名前を(わび亭)さんと申します。 またいつか菊坂でお逢いするのを楽しみにしていますよ。 ・巡り来る 季節待ちわび 紫陽花は 輝き渡る 時を迎えし(わび亭) そして「一葉忌」に素敵な遊諧師と再会しました。 ・巡り来て 櫻木の縁 尋ぬれば 炭団の紅葉 再び燃ゆる (さび亭)ということになりました。 幸せでした。 一葉忌に来ていただいた翌日11/24は、(わび亭)氏に招かれ清瀬へ・・ 野火止の庵にて素敵な音楽と、呈茶を頂き、さらにお友達の経営される「手打ち蕎麦」に預かり、界隈を(さび亭)は俳諧ならぬ徘徊をしてまいりました。 電気王、松永(耳庵)の残してくれた庵(現・新座市が管理)で繰り広げられたVnとギターの柔らかい和(なごみの)心温まる音でした。 手持ち撮影で見難いですが、その恵みのお裾分けです素敵な音楽をお聞きになりながら、お読み下さい。) 11/24日収録「睡足軒」のコンサート+野火止の「平林寺」へ行きました。 第一部「一葉さんこんにちは」 基点 丸の内線 『本郷三丁目駅』 ホームから上がり、身支度(洗面)を済ませたらイヨイヨ改札を出ましょう。
★この駅は待ち合わせにピッタリ、なにせ改札が一つです。 スタート時間にもよりますが、「法真寺」の「一葉忌」は毎年9時半から始まります。 まずは「法真寺」へ向かいましょう。 ①改札を右に出て名曲喫茶「麦」の前を通り本郷通りに出ます。 通りに出て左、「本郷三丁目交差点」に向かい歩きます。 本郷三丁目交差点では、老舗「かねやす」が渡る手前にあります。 勿論、樋口一葉がいたこの頃は、まだ市街車電車(開通は、須田町線がM37/01 ・上野広小路線は、M37/11)軌道も本郷三丁目には無い頃で、明治22年迄の拡張前は老舗『かねやす』も「三原堂」のもっと横断歩道側にあったわけです。
★明治24年8月3日「かねやす」にて小間物をととのふ、日暮れて帰る」 とある。 丁度、その頃の本郷三丁目の写真があるので小さいですが情報として載せておきます。 ・その2ヶ月後の明治24年10月15日仙臺堀は神田川の、上水樋橋の下流に、新しい橋が架かりました、その橋は鉄で出来た現在の「新御茶ノ水橋」です。開通、その二日後。
★明治24年10月15日「今宵は旧菊月十五日なり。・・・いでやお茶の水橋の開橋になりためるを行みんなはなど国子にいざなはれて、母君もみてこなどの給ふに家をば出でぬ。」 とある。 M24/1以降の春日通り(蔵書 ふるさとの想い出 写真集 MTS 文京 P25より)国書刊行会発行 現在の『かねやす』前を通り、横断歩道を渡るとサファリ帽を被った素敵な髭のお巡りさんがいた本郷四丁目の交番、その裏左手奥には、一葉(なつ)・クニらが散策した【本郷薬師】が見える。
★明治26年3月12日のよもぎふ日記に 「今宵」くに子と共に薬師の縁日そぞろありきす。」 とあります。 でも今は寄らないで直進。 足元に気をつけると緩やかな下り坂《見送り坂》 「橋南三丁目」 美味しい甘食の「明月堂」前を通る、そして昔の太田領の境であった【東大下水支流】の橋跡を渡りパチンコ屋さん前を通ると、菊坂通り入口に差し掛かります。「東大赤門前」へ向かう・・すると緩やかな上り坂これを《見返り坂》「橋北五丁目」と云います。 そのまま直進して行くと道路反対、なにやらTVで見たビル。 『角川書店』ビルです。 今度は、左手にちょっと凹んだところが在ります ・大正10年 (1921) 1月上京、同年8月まで「宮沢賢治」が菊坂下道に下宿し生活の糧に、文信社(現大学堂メガネ店)で硬筆(ガリ切)、謄写版刷りの筆耕や校正などをした出版社前を通過。※別情報あり もう右手先には東大赤門が見えていることと思います。アト、ちょっとです写真屋さんが左にありますか? あれば間違っていません。 この写真屋さん『須藤カメラ店』は、先のノーベル物理学賞受賞したカミオカンデで有名な小柴先生や皇太子妃雅子さまの記念写真を撮影した写真屋さんです。 赤門前の和菓子「扇屋」前を通過し、赤門ビル角「今はコンビニ」を左に曲がり奥へ進みます。 左に急に開ける駐車場が『櫻木の宿跡』ですその奥が「法真寺」受付で記帳し、到着です。 ※今回わび亭さんとは昨年、お逢いした「櫻木神社」前で、お会いし薬師堂前を通過法真寺へ向かいました。 H20.11/23 与) 
 ②1876(M9)-「法真寺」手前 一葉4歳が幼い時幸せな時を過ごした大切な場所。 ■御守殿門内部から見た【櫻木の宿】修復を待つ赤門内から 1925(大正14)年の写真の右側が「赤門ビル」その間にかわら屋根の二階家がある。 櫻木の宿が何時、壊され建て直されたか判らないが馬車と一号ポストがあるビルとの間、路地奥に見えるのがひょっとすると、櫻木の宿内の3坪程の瓦葺二階家屋部分かも知れない。. ⇔1925(大正14)年 修復を待つ「赤門」より 本部施設部所蔵写真よりトリミング  法真寺に隣接したi庭にはシンボルの櫻の木と池そして倉もある、二階屋に一葉一家は住んでいた。 経済的にも家庭的にも恵まれていた時代、M10元町に存在する頃の「旧・本郷小」から秋には家の近く、私立吉川小学校へ通った。
★「ゆく雲」 『上杉の隣家は何宗かの御梵刹さまにて寺内広々と桃桜いろいろ植 わたしたれば、此方の二階より見おろすに雲は棚曳く天上界に似て、腰ごろも観音さま濡れ仏にておはします御肩のあたり 膝のあたり、はらはらと花散りこぼれ・・・』とある。※また福満氏の話では法真寺入り口の角、医療器具屋の「お婆さん」が幼い頃「なつ」ちゃんと遊んだと話していたそうである。
 ③「附木店」 1877(M10)03 旧・本郷学校に入学後、秋に近所の私立【吉川学校】に入学。
 ④「不求橋」「本妙寺谷」-「番所跡」-「本郷丸山局店」
 ⑤「丸山通」【下道】大下水の当時を偲びながら歩く。
 ⑥宮沢賢治の菊坂下宿前通過
 ⑦「炭団坂」下の二等辺三角形
 ⑧「まちのえき」そして、一葉井戸界隈70及び69へ ・1883(M16)11歳の時青海学校小学高等四級首席で卒業するも母の反対に遭い退学する。 ・1886(M19)中島歌子の歌塾{萩の舎}に入門-1889(M22)17歳の時父が事業失敗後、病没。   母そして妹クニと共に次兄「虎之助」宅へ同居するが折り合い悪し× ・1890(M23)09 懐かしの本郷區へ    ・・選んだのは菊坂であった。 ■第二部「一葉さんこんにちは」
 ⑨一葉井戸近くの最初の家70番地に転居したのでした。その後69番地に移ります。   ⑩真砂町・鐙坂の事。
 ⑪伊勢屋質店内見学をし姉の久保木方位置確認  ・1893(M26)2/1下谷區龍泉寺町に転居、荒物・駄菓子屋を営む。
 ⑫1896(M29)24歳「たけくらべ」を「文芸倶楽部」に発表。11/23日肺結核にて没。 偲びつつ終焉の地を訪ねたいと思っております。 菊坂の与太郎・・・つづく

 本郷界隈 古い資料による散歩 http://www.geocities.jp/jf1zhe/ichiyouki1.html


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pp6519000000209.jpg M24,本郷三丁目
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1925年の写真,右側が赤門ビル,その左にかわら
屋根の二階家
1890 旧伊勢屋質店一般公開お知らせ
樋口一葉ゆかりの旧伊勢屋質店の建物内部を一般公開しています。 時00分~16時00分(最終入場は15時30分) 詳細および臨時休館等は、跡見学園女子大学のホームページに掲載 跡見学園女子大学のサイトへ(外部ページにリンクします) 【会場】旧伊勢屋質店(文京区本郷5-9-4) 【料金】無料 混雑時は入場までお待ちいただく場合がございます。 予約は受け付けておりません。 お手洗い、駐車場、駐輪場はございません。 館内での写真撮影はご遠慮ください。 館内は完全禁煙となっております。 悪天候等により、予告なく休館する場合があります。 【お問い合わせ先】 〒112-8687東京都文京区大塚1-5-2 跡見学園女子大学文京キャンパス事務室 電話番号:03-3941-7420 【文京区担当部署】 〒112-8555東京都文京区春日1-16-21 アカデミー推進課観光担当 電話番号:03-5803-1174 文京ふるさと歴史館 http://www.city.bunkyo.lg.jp/bunka/kanko/spot/shiseki/iseya.html http://www.city.bunkyo.lg.jp/rekishikan/   [姉の「久保木ふじ宅」] 下道に下りたら右に行き、突き当たりを右へ曲がると、先程の「菊坂」に戻ってしまいます。何気なく通り過ぎてしまうと分からないので二つ目の左に伸びている路地、角に大きな消火器BOXと町内の掲示板がある所。 手前を覗くと、立派な井戸が見えます。その先右側が姉の「久保木ふじ宅」へとなり、鐙坂で曲がった「東大下水支流」が流れ、大合流地点近くへと出ることになります。 では戻って先に進み右に曲がると真正面に「菊坂」を挟んで「胸突き坂」が見えることと思います。 
この坂が、元祖「△キクザカ」です。、 現在「胸突き坂」と呼ばれており,この坂の途中で寅さんの映画を撮影していたのを幼心に記憶します。  
【菊坂】 ◎「喜福寺の尻菊坂が〆くくり」 ・・・当時の川柳です。 ※今の「落第横丁」の道は、『喜福壽寺』の昔「喜福寺門前」として、「喜福寺裏門前」もそうであったように栄えていました。  昔からこの道は大事な道であったわけです。 きっと、岡崎本田藩に仕官していた、江戸の歌人「戸田茂睡」も、よく歩いた道であろうと思います。 国立国会図書館蔵の屋敷渡預絵図証文で、道造り屋敷を調査中【胸突き坂】位置に『菊坂』と標記されているのを発見しました。 元禄10年7月21日付けで『本郷丸山片町道造り』の絵圖証文の写しです。    (Ⅲ)『喜福寿寺』の御府内寺社備考-第五編 曹洞宗 127より 御覧のように喜福寺の絵図に「菊坂通」の記載があり、この正式名称『横丁』から『胸突坂』に通ずる道こそがやはり川柳にあった通り 「喜福寺の尻菊坂が〆くくり」で正解でした。 【丸山福山町】 そして、白山通りに出て一葉終焉の地「コナカ裏」の崖地辺りが丸山福山町の家が在った所であり。 毎年多少手前の位置ではあるが『一葉忌』には、温かい気持ちが溢れんばかりに記念碑がお花で一杯になり、呈茶などされ一葉女史の功績が称えられている。普段も彼女を偲ぶファンが絶えない場所である。 偲びつつ終焉の地を訪ねましょう。  菊坂の与太郎・・・つづく

 本郷界隈 古い資料による散歩 http://www.geocities.jp/jf1zhe/ichiyouki1.html




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