[東京銀座] 玉屋時計店










1880
横文字看板の出現
明治維新を経て他の事物と同様,看板もまた新しいスタイルをとるようになる。
とはいっても文化は一朝一夕に変わるものではなくて,幕末から明治,あるいは19世紀と言う時代の幅の中で変化を遂げていった。
まず看板にもたらされた大きな変化としてローマ字の使用が挙げられる。
ローマ字看板の波が日本に押し寄せたのは明治維新よりも早くて,安政の5カ国条約によって横浜・長崎・箱館が開港された1859年(安政6年)ごろになるだろう。
横浜などに設けられた外国人居留地の商店看板にローマ字が踊るようになる。
開港の都市横浜に訪れた福沢諭吉は,ローマ字看板を全く読めずに非常に落胆したと言う逸話は福翁自伝(1899年,岩波文庫)に載っている。
福沢それまで一生懸命オランダ語を勉強していたが,そこで通用していた言葉はオランダ語ではなかった。その後福沢は英語を学ぶことになる。
もちろん居留地でみられた外国語の看板はすぐさま市中に氾濫したわけではない。
むしろ看板の状況はE.S.モースの観察からもわかるように,明治10年代になっても近世的な意匠をとどめていた。
文明開花の象徴として語られることの多い銀座の煉瓦街ですら,錦絵を見ると軒先から扇形をした模型看板が吊るされていたり,店頭に箱看板が置かれていたりと,案外近世風の看板も用いられていたようなのである。
しかしローマ字看板は一緒の流行として徐々に街中に浸透していった。
明治10年代後半から20年代前半ごろ(1880年代),各地で盛んに出版された商工案内所を見ると,ローマ字看板をあげている商店が確実に増えていることがわかる。
例えば和洋書籍などを使った丸善は,
 ◯にMの字のトレードマークにZ.P.MARUYA&CO.
という看板を掲げている(東京商工博覧絵,1885年)。
この頃はローマ字だけの看板を出している店もあるが,店の名前などを漢字で併記しているところも多い。
ローマ字,つまり横文字の使用は看板文字を横書にして,看板の形を横長にした。
このことはまた近世では基本的にあり得なかった看板を街路と並行に掲げるスタイルに繋がっていく。横型化の傾向は近世の慣習を破る注目すべき変化だったといえる。
また看板制作に適した塗料としてペンキが使われ始めたのも大きな変化だろう。
「明治事物起源」にはある理髪店が看板に塗るペンキを探していたが入手の道がなくて,海軍省から少量分けてもらってようやく1枚を塗ったと言うエピソードを紹介されている。
1871年, 1872年(明治4年,5年)の話という。
後に街を賑わすことになる近代独特の大型文字看板は,ブリキやトタンなどの薄い板にペンキを塗る手法によって可能になったものである。
−「看板の世界–都市を彩る広告の歴史」,船越幹央,大功社,

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1880
看板の変化
以前は芝居にとって重要な意味を持っていた看板であったが,明治維新以降は劇場の変化に伴いそのあり方も大きく変わっていくことになる。
ごく簡単に近代劇場の看板について触れておこう。
時代が明治時代になると演劇改良運動が進められたが,その中で歌舞伎の内容はもちろんのこと,劇場の形式にも変更が加えられた。
1872年(明治5年),江戸三座のひとつ「守田座」は従来の猿若町から新富町に移転して,「新富座」と改称した。
その建物は1876年(明治9年)に消失して, 2年後に新しく建て直された。
その際,櫓をなくすなどいくつかの重大な改革が行われたが,看板についても
大名題看板,小名題名看板,絵看板
を残したのみで釣看板などを他の看板を廃止することになった(服部幸雄「大いなる小屋」)。
その後も看板簡略化の動きは進行して, 1919年(明治22年)に完成した歌舞伎座では,看板は建物脇の掲示板にまとめられてしまった。「風俗画報11号」(1889年)には
「正面絵看板などを用ひず,門内別に銅葺の看板掲示場を設けて,檜板の大看板に会場の開日,大名題および浄瑠理名題などを座主・福地桜痴居士自筆にて大書せり」。
とある。
新しい劇場の登場は,近世に守られていた各種の看板の約束事を失わせて,ついには絵看板位しか残れない状況が訪れることになる。
もちろん,これは看板だけに起こった現象ではなくて,劇場の市中進出や,建物の構造・デザインの西洋化,舞台の額縁化や客席の椅子化など明治から昭和初期にかけて様々な変化が起こった後であった。
つまり看板の変化も,劇場や芝居街のあり方に左右されて引き起こされたものだといえるであろう。
−「看板の世界–都市を彩る広告の歴史」,船越幹央,大功社,

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店舗の歴史
銀座煉瓦街
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2014/1/28(火) 午前 10:40 流通 練習用
図書館に行っていろいろ調べると、いろいろ面白くなってしまって、進みのが遅れてしまいます。
まぁ、先にゴールがある訳でもなし、少しの後戻りです。
店舗の歴史13に明治の始めに政府の肝いりで防火対策と海外へのショールーム的な意味合いで、銀座に煉瓦街が出来たこととその画像をお見せしました。明治5年の大火の翌年には出来上がるのも、当時の繁華街の中心は日本橋近隣でしたので銀座は、そこから外れていたことも、こういう街区が作りやすかった理由でもあるようです。
計画はお雇い外国人のウオールトンという元は建築家ではなく鉱山技師だったようですが、なかなか器用な人だったようです。モデルはロンドン、リージェント・ストリートだったそうで、通りは2階建ての洋館で埋め尽くされます。煉瓦作りとは言っても、煉瓦なんてあまりありませんから、漆喰で塗り固めたものが大部分であったようです。
不評で公募しても集まらず結局は大赤字で終わるのですが、空き家では見世物も行われたとあり、埋まり始めるのは明治も中頃になるのですが、建て替えられるのではなく、奇妙に和風がくっつくという形になったようです。それが下の画像です。
これは煙草問屋ですが、洋館の前面に庇を出し、暖簾を掛け、右壁には華頭窓のようなしつらえがあります。格子窓もあり、2階を見なければ洋館だとは分からない仕掛けです。
これは宿というかホテルというか、そういうもののようです。前面に垣根が張り巡らされているし、2階のベランダには着物の女性らしき姿があり、何じゃこりゃあの世界です。
実に日本らしいというか、コロニアル・スタイルと呼ばれる西欧列強がアジアの植民地に建設していく洋館も、日本人が使うとなれば、とことん変容させてしまう姿です。

流通の歴史と未来のブログ
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