アテネ劇場跡




横浜市滝頭「アテネ劇場」跡
1946年
美空ひばりと山口百恵の距離は19kmだ。
ひばりの生まれ育った横浜の滝頭と、百恵の育った横須賀市不入斗(いりやまず)の距離だが、
海岸沿いの国道16号線の距離ではそんなものだ。
その19kmの間に戦後歌謡曲を二分する二人の天才少女があらわれたのは不思議な気がする。
NHK横浜FM局が開局20周年記念に、この7月、
「保存版・横浜神奈川歌謡曲全集」という7時間半の生放送をし、
「ひばりvs百恵」という章をもうけたのだが、
その機会に深夜ドライブを兼ねて行ってみたのだが、
この19kmは近いのか遠いのか判断がつかなかった。。
ひばりのレコードデビューは昭和24年(1949年)、12歳の時の「カッパブギ」、
百恵のレコードデビューは昭和48年(1973年)、14歳の時の「としごろ」で、
その間24年。この時間は遠い。
しかしそれぞれの最高の歌唱「哀愁波止場」と「マホガニー・モーニング」を続けてかけると、
聴いた人はひばりと百恵がこんなに似ていたのかと驚くほど近いのだ。
国道16号線を横浜滝頭から大岡山運河(大堀川)沿いに海に向かって、八幡橋のところで右折すると、
ひばりが9歳(1946年)の時に初舞台をふんだ「アテネ劇場」という映画館があった。
-美空ひばり(文春ビジュアル文庫)1990年刊     

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ひばりには横須賀を歌う理由がなかった。
横浜と横須賀の間には米軍基地が介在していた。
ひばりのデビューした当時は横浜の中心地は米軍が支配していた。
本牧、元町、フランス山、山下公園、伊勢崎町は占領下。
これらの地点が戦前のヨコハマであって、
「赤い靴」も「別れのブルース」も占領された中区が舞台だ。
したがって、デビュー時のひばりがイメージして歌ったヨコハマは、
「河童ブギ」の八幡橋であり、「悲しき口笛」の滝頭であり、
闇市の野毛、魚卸市場のあった青木橋界隈(神奈川区)であったことが、
のちのひばり艶歌の成立する遠因となっている。
-美空ひばり(文春ビジュアル文庫)1990年刊     

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■アテネ劇場   
アテネ劇場は磯子の旧道と新道の分岐点(芦名橋付近)を海側に入ったところにあり、
定員は280名で昭和21年~昭和30年頃まで営業していた。  
長谷鉄工所経営者の長谷巌氏が木造の公設市場を改装オープンしたもので当初は磯子劇場と呼ばれていた。 
当初は芝居小屋であったがその後、映画も上映するようになる。 
昭和21年(1946)9月にここで美空ひばりが3日間の舞台を踏む。 
横浜市の映画館・アテネ劇場で昼夜2回3日間興行。 
宣伝ポスターに「スタア美空楽団演奏会 豆歌手美空和枝出演」とある。(ヨコハマ芸能外伝より) 

横濱彷徨録 







かつて美空ひばりは、先に記述した野毛の横浜国際劇場や東京の劇場に出演する前に磯子のアテネ劇場や杉田劇場で公演をしていたという。 
戦後間もないこの時期、いずれの劇場も娯楽に飢えた大衆でけっこう賑わったそうだ。 
年月もずいぶん経過したとは言え、果たして「アテネ劇場」、「(旧)杉田劇場」の跡地はどうなっているのか彷徨ってみた。 
確認のため、昭和34年度版の地図を見ると、「映画アテネ劇場」が掲載されているので、
この旧地図を頼りに磯子駅から歩く。  
アテネ劇場跡地?
目的地周辺に近づくにつれ(国道の反対側には)火の見櫓もあれば、
これぞ昔からの市場、「浜マーケット」といった昭和の香りのする建物が目につく。 
バス停のみ名前が残る橋のない「芦名橋」の交差点を進み、
海岸側方向に曲がると、デーンと立派なマンションが建てられていた。 
おそらくバイクが置いてるあたりに「アテネ劇場」があったのではないか? 

横濱彷徨録