[鉄道] 北海道拓殖鉄道跡,2003





1965


1977






2003
北海道拓殖鉄道
はじめに
【区 間】
 新得 - 東瓜幕 - 上士幌
【主な駅】
 新得 佐幌 屈足 鹿追 瓜幕 東瓜幕 中音更 上士幌
【沿 革】
 1928.12.15 新得 - 鹿追開通
 1929.11.26 鹿追 - 中音更開通
 1931.11.15 中音更 - 上士幌開通
 1949.09.01 東瓜幕 - 上士幌廃止
 1967.10.01 瓜幕 - 東瓜幕開通
 1968.02.10 屈足 - 瓜幕休止
 1968.09.01 全線廃止
名前の通り開拓を目的として、十勝平野北部に地元の有力者らの力によって作られた路線。
計画では根室本線の新得から網走線(のちの池北線、現在のふるさと銀河線)の足寄を結ぶことになっていた。
資金難などから会社設立・工事着工は遅れ、まず
新得~鹿追が1925年、
鹿追~中音更は1928年、
中音更~上士幌は1929年
と少しずつ工事が始まり、
1931年には新得と上士幌の間が鉄路で結ばれた。
残るのは上士幌~足寄だが、ほぼ同時期に工事がすすんでいた石北線が開通すると、その存在価値が薄れてしまうため、開通は諦めざるをえなかった。
さらに、開拓が目的ということは住民が少ないということで、開業した区間についても当初から経営は思わしくなく、補助金を受けなければいけない状態だった。
そのため、1949年には早くも
東瓜幕~上士幌
を廃止。木材の輸送などで一時的に賑わったこともあったが、
さらに1962年の台風9号による被害、屈足で連絡していた森林鉄道の廃止などが重なり、経営はますます厳しくなっていった。
結局、瓜幕~東瓜幕を廃止、屈足~瓜幕もトンネルの問題から休止になってしまう。
残る区間についても、1968年7月に休止され、その年に廃止となった。
現況
十勝地方は酪農や農業が盛んであるため、平野部の線路跡はほとんどが周囲の農地に取り込まれ、その存在はすっかり消え去っている。
橋梁も小さいものはいくつかその跡を確認することができるが、大きなものは撤去されてしまった。
駅舎についても跡形もなく、そうと知らなければ全くわからなくなっている。
ただ、丘陵部など部分的には築堤などが残っている箇所もあり、年数の割には痕跡が各所で見られる。
一方で国道にあった跨線橋など、近年になって撤去または状況が変化したものもあり、今後も現在の状況が維持されるかどうか安心はできない。
解説
【新得】(しんとく:山の突起を意味するアイヌ語「シリ・トク」から)
現在も根室本線の駅としては現役。
当時の国鉄と北海道拓殖鉄道で同じ駅舎を使用する共同使用契約を結んでいたとのことだが、建物はすでにその当時の姿ではなく、洋風の洒落た建物になっている。ホ
ームは撤去されてすでに残っていないが、場所は現在使われている根室本線の1番ホーム南新得側とほぼ同じ位置にあたり、駅舎側に拓鉄の列車が発着していたとのことだ。構内の線路跡もすっかり整備され、温泉浴場とその駐車場に代わっているため、遺構は見つけられない。
次の南新得までの区間は根室本線の東側を並行する形で線路が敷かれていたが、その部分の痕跡としては、途中の小川に残る橋台とその前後の築堤などが現存している。
また、その他の部分は特に再利用はされていないため、通路地などとなっていて、比較的容易に線路跡をたどっていくことができる。
【南新得】(みなみしんとく:)
本社や機関庫などがおかれていた北海道拓殖鉄道の拠点駅だったが、その広い敷地には、現在も運送会社となって存続している北海道拓殖鉄道の本社があり、所有するトラックや同じ系列会社の拓鉄バスの車両が並んでいる。ただ使われているのはかつての敷地の一部で、新得側の部分は町に寄贈されて「拓鉄公園」と名付けられた公園となっている。
佐幌側は何も使われておらず、草薮と林となっているが、その木々の間には機関庫のピット跡が隠れている。
近年になってレールは外されてしまったようだが、2本のピット跡には明らかにレールを留めていたと思われる痕跡もあった。
南新得を離れるとすぐに根室本線から大きく分かれ、間もなく国道と跨線橋で交差していた。
その跨線橋は廃止後もしばらくは放置されていたが、近年の平面化工事によって消え去り、そこから十勝川までの痕跡も全く残っていない。ただ、その十勝川では、両岸に対となっている橋台が残っており、さらに川の真ん中には、立派な円柱の橋脚が堂々とと残り、そこから先に続く築堤もかなりの部分で明確となっている。その立派な橋脚の土台は、年々川の流れによって削り取られているのか、コンクリートの砂利が露出してしまっている。
また、佐幌付近では不分明になるが、屈足の手前でも、小さい橋梁の跡が2か所で確認できる。
【屈足】(くったり:)
木材の積み出し駅として、かつては森林鉄道も接続していたが、付近に木材工場は残っているものの駅舎などの施設は跡形もない。
商店街も道道沿いに移ってしまい、かつての駅前通りには賑わいは感じられない。
屈足市街地は木材工場の敷地などとしてその面影を残すのみで、その先の十勝川では、通常残ることの多い橋台すら撤去されている。
ただ新得寄りの川の中にコンクリートの残骸が放置されており、位置的にもこれは橋脚の跡のようだ。
川を渡った後、道道を離れる辺りからは明瞭で、鹿追へ向かう古くからの道沿いに築堤を見ることができる。
途中、コンクリートのアーチ橋も残るが、これはこの道路を跨ぐための橋だったようだ。
その先も築堤などとして跡はかなりはっきりしているが、熊牛トンネルの新得側付近は近年の自然災害などにより、かろうじて判別できる程度。鹿追側は早い段階で埋め立てられており、農地の中に一直線に続く盛り土が、ちょうど線路跡にあたる。
さらに先、鹿追までの間にある断片的な遺構の中でも最も大きいものは、拓鉄と十勝鉄道(旧河西鉄道)との交差地点に架かっていた橋梁で、桁はないが、両側の橋台がその前後の築堤とともに林の中に放置されている。
もう一つの交差地点と新幌内の跡はまったく判別できない。
【鹿追】(しかおい:)
付近の様子は一変し、かつての駅前通りは駅裏まで突き抜けている。
また線路跡は緑町本通という立派な道路に変わった。
駅跡には拓鉄のバス部門が独立した拓殖バスの鹿追営業所がおかれていて、当時の建物は残っていない。
ただ、駅跡近くの公園内には拓鉄で使われていたSLが、屋根がついていることもあってきれいな状態で展示されている。
この先瓜幕までは、これまでと違いほぼ平野部を進んでいくことになる。
そのため、廃止後、早くから農地などと化し、目立った遺構は全く見つけることができない。
途中にあったいくつかの駅は正確な場所を特定するのも難しい。
【瓜幕】(うりまく:)
駅跡は空き地となり、建物などは何も残っていない。
最近まで現役で使われていた当時からのトイレもすでに撤去されてしまった。
東瓜幕とともにここにもあった駅跡を示す標柱もいつのまにかなくなっていた。
ただ、それに代わり地域の有志によって記念碑の製作が手作業で進められている。
完成は2004年5月の予定だ。
この区間も平野部では目立ったものはない。
ただ、連絡する道路がないため未確認だが途中で丘陵部を通る箇所があり、そこに何らかの痕跡がある可能性はある。
【東瓜幕】(ひがしうりまく:)
痕跡は残っていない。
林の端にひっそりと建てられた白い標柱がほとんど唯一の手がかりだ。
その向かい側にある車庫は拓鉄本社にあるのと同じタイプのもの。
かなりの年期が感じられる。
東瓜幕から上士幌までは、戦後間もなく、50年以上も前に廃止になっている。
そのため、明確な痕跡はあまりみられない。
道路となった部分や、一部に築堤や暗渠などもみられるが、その程度で、途中にあった中音更、終点の上士幌の両駅も残っているものは何もないようだ。
2003.9

廃線跡Report
http://www.geocities.jp/xxreport2/repo/takut.html
http://www.geocities.jp/xxreport2/index.html

































PAGE TOP
HOME
Site logo
 廃線跡Report
北海道の廃線跡を訪ねて
ようこそ廃線跡Reportへ! 北海道の廃線跡を紹介しています。
旭川電気軌道
芦別線
芦別森林鉄道
胆振線
岩内線
歌登町営軌道
王子製紙専用鉄道
鴻紋軌道
根北線
札沼線
士幌線
定山渓鉄道
渚滑線
寿都鉄道
千歳線旧線
手宮線
天北線
戸井線
豊羽鉱山専用線
名寄本線
函館本線旧線(神居古潭)
函館本線上砂川支線
函館本線南美唄支線
羽幌線
広尾線
北海道拓殖鉄道
幌内線
万字線
三井芦別鉄道
三菱鉱業専用鉄道
三菱鉱業美唄鉄道
三菱石炭鉱業大夕張鉄道
夕張鉄道
夕張線
夕張森林鉄道
湧網線

廃線跡Report
http://www.geocities.jp/xxreport2/repo/takut.html
http://www.geocities.jp/xxreport2/index.html





[鉄道] 拓殖鉄道/根北線跡
1990
斜里-下越川間徒歩行
自転車はもう走れない(※)。
※:前日までの走行で車軸を破損していた。後日リムを置換することになった。
とはいえ、このまま帰るのもしゃくな話ではある。
時間の余裕もあることだし、根北線の跡を徒歩で辿ってみることにする。
予想通り、痕跡はほとんどわからない。
廃止された時期が古いだけに、線路跡は畑地等に転用されてしまったのだろう。
斜里駅近くの踏切と橋台にわずかな跡が残されているのみである。
斜里駅から見ると、根北線の線路跡がまっすぐ進み、釧網本線の線路が南へと分岐しているかたちになっている。
根北線の方が格上な路線だったとは思えないにせよ、標茶駅とも共通する現象で、おもしろい。
強い陽射しの許、国道に沿って歩く。
以久科駅の駅舎らしい建物が見えてくるが、周囲は一面の畑地であり、近寄る術がない。
半ば朽ちたるこの建物、ひさしの伸び具合いからしてまず駅舎であろう。
畑の中に浮かぶ過去の遺物といった趣だ。簡素にして粗末。
根北線の置かれた状況が、そこはかとなく知れる。
駅舎の傍らにも廃屋が二軒ほどある。
いったいなんの建物であったのか、以久科駅舎とともに畑の中にたたずんでいる。
格子のような農道をアミダくじ式に進む。
いやになるほど静かだ。ただ、セミの声だけがやけにうるさい。
線路の跡は防雪林の切れ目などでかろうじてわかるのみである。
下越川駅跡も近寄る術がわからない。わかったとしても、跡が残っているかどうかは疑問だが。
国道に戻り、わたしが越川まで完歩出来ないことを知る。
バス路線は下越川付近が終点なのである。しかも、最終バスは15時15分発で、これを逃せば歩いて帰らざるをえない。
そして、越川駅までは4kmほどの道のりである。
往復するだけで2時間以上かかることは必至で、とても最終バスに間に合う筈がない。
バスは1時間もせずにやってくるのである。
越川まで行き、さらに斜里駅まで歩き通すという手もないではない。
だが、そうすると斜里駅に着く前に陽が沈むことは間違いなく、今晩の宿を網走に予約している以上、都合が悪い。
今回のツーリングは、とことんついていないようである。
前進を諦め、バス停付近の商店の女将の話を訊く。
「わたしはこっちに来て間がないけど、線路の跡は全然わからないみたいよ。
越川の駅は民家になったそうだし。
ただ、人柱が埋まってるっていう橋の土台は残っているみたい。
町の人が年に一回供養している。
随分とテレビにも取り上げられたしね。
ここらはなにもないところだけど、それでも線路はどこですかって訊きにくる人はしばしばいるよ」
う~ん、ここにもまた「そういうの」(※)が多いようである。
もしかすると、地の果てまで行ったとしても、そこに鉄道がある限り、「そういうの」の影からは逃れられないのかもしれない。
※:6日前の歯舞の薬屋のおばさんとの会話。
「ところで、なんで拓殖鉄道のことなんか訊くの?」
「興味があるもので」
「たまに来るのよね。そういうのが」
おばさんに「そういうの」と呼ばれ、わたしはおおいに落ちこんでいた。
バスがやってくる。
2人が降りて折返し。乗客はわたしだけで、斜里駅に着くまで車内には運転士とわたしだけのさびしい道中になった。
このバス路線、旧越川駅の手前4kmほどのところまでしか行かず、しかも1日2往復の運行しかなく、その2往復でさえ日曜祝日には運休してしまう。この実態こそが旧根北線沿線の全てを物語っているのではあるまいか。
途中の乗り降りもなく、バスは快速を誇る。
2時間かけて歩いてきた道を15分で簡単に走破してしまう。
こうしてみると、やはり自転車は便利だ。
15分とまではいかないにしても、30~40分で行けた道筋ではないか。
黄昏かけてきた地を走り抜け、バスは斜里駅に到着する。

以久科鉄道志学館
http://www.geocities.jp/rail_of_shinsyu/ezo/ixyna/90.html
http://www.geocities.jp/rail_of_shinsyu/ezo/you/you.html
http://www.geocities.jp/history_of_rail/781/781.html
http://www.geocities.jp/rail_of_shinsyu/ezo/index.html
http://www.geocities.jp/history_of_rail/