[山梨塩山] 慈雲寺



樋口一葉の生涯
樋口一葉
明治5年(1872)~明治29年(1896)
父が東京府の下級官吏をしていたため、府構内長屋で生まれ、生涯東京を離れなかったといわれる。
11歳で小学校中退、萩の舎に入門して和歌を学ぶ。
萩の舎は中島歌子の主宰する名門歌塾で、余りにも身分ちがいに一葉はわが身を知らされる(入門当初は樋口家も裕福だったが、華族の令嬢・貴婦人とはおのずからちがう)。
当時の日記には、
「家は貧に身はつたなし」
と書いている。
長兄につづく父の死で、女戸主となったのは17歳。
その頃、許婚だった渋谷三郎に婚約破棄され、大いに傷つく。
小説家を志したのは、母と妹を養うためであった。
妹の友人の紹介で朝日新聞小説記者の半井桃水を訪問。
それは運命的な出会いであった。
桃水に習作をみてもらいながら図書館に通って勉強するが、なかなか売れるような小説は書けない。
そのうち二人の仲が萩の舎で評判になり、歌子に絶交を迫られる。
この後、姉弟子の三宅花圃の紹介で「都の花」に『うもれ木』を発表。
『たけくらべ』を発表する2年前のことである。
貧乏底をつき龍泉寺町で荒物屋をひらいた頃から、「文学界」の仲間との交流がはじまる。
創作に苦しむ一方で、生活にいきづまった一葉は、占い師の久佐賀義孝や二十二宮人丸を訪ねて金銭的援助を乞う。
この頃の一葉は今でもナゾとされる。
星野天知、馬場孤蝶、戸川秋骨、平田禿木らがしげく出入りするなか、一葉は
『ゆく雲』『にごりえ』『十三夜』
など意欲的に執筆。
一葉「奇跡の十四ヶ月」といわれる。
「文学界」に連載した『たけくらべ』が森鴎外や幸田露伴の目に止まって評判になったのは、「文芸倶楽部」という雑誌に一括掲載されてから。
死ぬ数ヶ月前のことである。
名声は一挙にあがったが、お金とは無縁であった。
しかも借金に借金を重ねる生活が一葉をすね者にし、悲運のまま世を去る。24歳。
生涯を通じての恋人は半井桃水であったが、晩年交わった斉藤緑雨は一葉日記の棹尾(とうび)を飾る人である。

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・ 一葉の故郷
一葉の故郷は甲州中萩原村(現・山梨県塩山市)。
私が訪ねたのは2006/6月のこと、シーズンオフで観光客は一人もいなかった。
駅前でもらった案内図をみて路線バスに乗り、目的地で降りたが誰もいない。
ようやく農家のおばあちゃんを見つけて慈雲寺を教えてもらった。
かなりの上り坂で、周囲はブドウと桃畑のみ、花の時期には桃源郷そのものにちがいない。
慈雲寺はこじんまりとしたお寺さんで、このところの一葉ブームで訪れる人も多いのだろう、手入れがゆき届いてとても気持ちがいい。一葉碑の前で一人お茶を飲み、幸田露伴によるという碑文をながめ、写真を撮らせてもらい、充分一葉の世界に浸ることができた。
慈雲寺には樹齢300年以上にもなるという枝垂れ桜がある(看板にはイトザクラの文字)。桃色の花が枝いっぱいに咲いたら、天が開いたような明るさで、さぞかし見事であろう。
慈雲寺前の駐車場がにぎやかなので、地元の青年たちがお祭りの準備でもしているのかなと思ったら、TVドラマの撮影だっ た。
よくTVでみる女優さんとばったり出くわして、なぜか24歳の娘盛りで亡くなった一葉とダブってしまったのだ(ドラマは一葉とは全然関係ないものだったけど)。
慈雲寺は一葉の父義則(幼名・大吉)母滝子(幼名・あやめ)が学んでいた寺で、二人が駆け落ちして江戸に出たのは1957年(安政4)のこと。
それにしても交通手段のない時代、峠をいくつも越えて江戸まで出る当時の人に脱帽!
ほんとに昔の人は健脚であった。
現在では電車を乗り継いで半日でいける距離だけど、それでもトンネルを抜けるたびに山深くなり、都会からは隔絶の感なのである。

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慈雲寺にある一葉碑



・ 一葉のなかに流れる血脈
幸田露伴の撰文による。
境内には父母の恩人でもある真下専之丞の碑が並んで立っている。
大吉、あやめが出奔した時、あやめは妊娠8ヶ月。
御坂峠から足柄峠を越えて湘南に出る比較的ゆるゆるした旅で、7日目に江戸の入った。
二人は、村の出世頭であった真下専之丞を目指していた。
(中里介山の『大菩薩峠』には大吉とあやめが大菩薩峠を通ったようにフィクションで書いてあるが、実際には通っていない)。
父は番所(ばんしょ)調所の勤番筆頭であった専之丞の下働きをし、母は生まれたばかりの長女を預けて、旗本稲葉家の乳母に出るという共働き。
二人が専之丞の世話で士分の株を購ったのは、出奔から10年目のこと。
この立身出世欲と目的を得るまでの忍耐づよさは、まちがいなく一葉に引き継がれている。
しかしその3ヶ月後には徳川慶喜が大政奉還して幕府は瓦解。
幸い父は身分が低かったために東京府の下級官吏に横すべりすることができたが、よほど悔しかったのだろう。
この農民から士族に成り上がったプライドを捨てきれず、それが娘の一葉を苦しめ、一生しばることになる。
専之丞亡き後、父則義が甲州の人たちの面倒をみた。
保証人や就職、金の貸し借りなど頼りになるのは同郷人で、甲州弁がいきかい、まるで甲州の村ができているようなものであったという。
一葉の日記に「親戚めきたるもの」と書いてあるのはそうした人たちで、戸主となってからは何かと相談にのってくれる存在であった。
しかし、最後になってお金を貸してくれない彼らを、一葉は悪しざまに罵っている。
父母の故郷を一度も訪れたことがないといわれている一葉だが、このように彼女のなかに流れるものは、まぎれもなく甲州の血脈であった。
『ゆく雲』の冒頭に、
 「わが養家は大藤村の中萩原とて、見わたす限りは天目山、大菩薩峠
 の山々峰々垣をつくりて……魚といひては甲府まで五里の道を取りに
 やりて、やうやう鮪(まぐろ)の刺身が口に入る位」
と書いているのは、まさにその光景である。

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■頭痛と樋口一葉
■樋口一葉,頭痛を語る
井上ひさしさんの戯曲に,
「頭痛肩こり樋口一葉」
というちょっと変わったタイトルのものがあります。
「たけくらべ」「にごりえ」などの名作を残した樋口一葉は,まさに激しい頭痛と肩こりに悩まされた人でもありました。
とりわけ頭痛は,一葉の10代の頃からの悩みの種でした。
「おのれ十四斗(ばかり)のとしまでは病ひといふもの更に覚えず」(「筆すさび」)
という丈夫な一葉でしたが,その後大人びるにつれ,
「ここかしこに病ひ出来て,こと更にかしらいたみ肩などのいたくはれなどすれば,物覚ゆる力とみにうせて耐えしのぶなどといふは更に出来うべくもあらず・・」
と書いています。女性として成熟するにつれ,さまざまな病気,とくにかしらいたみ(頭痛)と肩のはれに苦しめられるようになりました。
「たけくらべ」には,主人公の少女・美登利(みどり)が初潮を迎えたときの,微妙な心の乱れや女性としての変化が見事に描き尽くされています。明治という時代に,公然と語ることなど思いもよらなかった女性の生理を,真正面から描いてみせた一葉の大胆さと,描写の巧みさには驚かされます。
その一方で日記と合わせ読むと,一葉の頭痛はおそらく,美登利と同じような年頃から始まったであろうことが連想されます。
一葉は日記に,頭痛のことをよく記しています。
「頭痛たへがたければ此夜は早くふしたり」
「頭痛はげしく暇を乞いて灸治(きゅうじ)に行かんとす」
「頭痛いとはげしければ暫時ひる寝」
「我脳痛いとはげし。水にてかしらあらひ,はち巻などす」
「かしらはただいたみに痛みて何事の思慮もみな消えたり」
「脳の痛みたへがたくして,一日うち臥したり」 (井上ひさし「樋口一葉にきく」より抜粋)
日記からは,一葉の頭痛がかなり激しいものであったことがうかがわれます。早く床についたり,灸をしたり,髪を洗ったり,なんとか頭痛の解消を試みている様子も伝わってきます。
鉢巻は,机に向かって小説を書くときなど,頭痛対策でよくしていました。
病院から鎮痛薬をもらってもいましたが,あまり効き目はなかったようです。
それでも一葉は薬包紙を,しおり代わりにして本にはさんでいたといいます。何気ない習慣にも,耐えるしかない一葉の頭痛のつらさが偲ばれます。
代表作のひとつ「にごりえ」は,菊の井という銘酒屋で働く酌婦お力(りき)と,お力を目当てに遊びにくる男たちとのやりとりを描いた悲劇的な物語です。
お力は酌婦仲間にも慕われる「姉さま風」の魅力的な女性ですが,同時に,やり場のない生の空虚感を体現した遊女そのものとしても描かれています。
そのまなざしは,世俗の塵のなかから陽の当たる世界を眺めつづけた,一葉自身の視線ともからみあっています。
お力はまた,頭痛持ちの女性としても描かれています。
お力がしばしば頭痛を起こしたことは,小説の文中から読み取ることができます。
ただ,実際にお力が頭痛に悩む場面はごくわずかで,
「お力は起って障子を明け,手摺りに寄って頭痛をたたくに・・」
といった,さりげない一瞬の描写に留められています。
けれどもそのさりげなさが,かえって自分が創造したお力という女性への,一葉の肉体的な,官能的な共感を感じさせます。 
■一葉の頭痛の原因を探る
樋口一葉の頭痛には,いくつかはっきりした原因がみられます。
そのひとつは,さきほどの「筆すさび」のなかで,
「親はらからもみな脳の病ひにくるしむなるを・・」
そう一葉自身が書いているように,親兄弟に頭痛持ちが多かったことです。
頭痛そのものは遺伝しませんが,頭痛が起こりやすい器質を受け継いでいたのです。
二つめは,これも一葉自身の言葉から読み取ることができますが,頭痛が女性としての成熟にともなって起こっていることです。頭痛にはいくつかのタイプがありますが,女性によくみられる「片頭痛」は,思春期や更年期にはじまりやすい特徴があります。
原因は,ホルモンバランスの変化(乱れ)によるものです。そのため若い女性に多いだけでなく,それまで頭痛を知らなかった女性が更年期を迎える頃に,頭痛を起こす例もあります。
三つめは,一葉が強度の近視だったことです。
新しい5000円札にも採用された一葉の肖像は,亡くなる少しまえの23歳頃のもので,実際の一葉にもっとも似ているといわれます。凛とした大きな瞳がなによりも印象的ですが,人の顔すら近くに寄らないと判別できないほどの近視でした。
一葉の親友であった伊東夏子の思い出に,ユーモラスなエピソードが語られています。
歌がるた取りのとき,近眼の一葉がかるたに頭を近づけるため,ほかの人から見えなくなってしまうのです。「かるたが見えないので眼鏡をかけてちょうだい」と注意したものの,一葉は頑として眼鏡をかけようとしなかったといいます。
強度の近視は遺伝的要因によるものが多いのですが,一葉の場合は子供の頃から蔵のなかで本を読みふけったことが,近視の進行をいっそう早めたようです。
強い近視の人は,ピント調節がうまくいかないため,どうしても目が疲れやすくなります。また読書中はまばたきをあまりしないため,涙が不足し,ドライアイによる目の疲れも生じます。
こうしたことから一葉は,眼精疲労にともなう頭痛,あるいは頭重を起こしていた可能性もあります。
四つめは,小説を書くという仕事上,同じ姿勢を長時間つづけざるをえなかったことです。
同じ姿勢をつづけていると,首や肩の筋肉のこりはもちろんですが,頭皮の筋肉も硬くなって血流が悪化し,それが頭痛を引き起こす原因となります。
「緊張型頭痛」といわれるもので,長時間のデスクワークをする人に多くみられます。
これらの要素だけでも,頭痛持ちの資格は十分すぎるほどです。
しかし原因もさることながら,一葉と頭痛との関連で注目したいのは,一葉の「生き方」とのつながりです。一葉の頭痛には,かなり屈折した思いがこめられているように直感されるのです。
それを探るためには,一葉の生涯を少し振り返ってみる必要があります。 
■一葉にみられる父親の残像
樋口一葉は明治5年に東京で生まれました。父の則義(大吉)は東京府の下級官吏でしたが,もとは山梨県塩山市の大菩薩峠を望む農村の出身です。
則義は幕末期に,同じ村に住む多喜(滝子)と一緒になるため故郷を出奔し,江戸に出てきた人です。その後,幕臣の従者などを勤めながら金を貯め,八丁堀同心の株を買って武士の身分を手に入れました。
ところがわずか数ヵ月後に明治維新となり,武士の身分ははかなく消滅します。それでも士族としての身分は残りました。明治の新しい制度(華族・士族・平民・新平民)では,華族に次ぐものです。
則義は下級官吏を勤めるかたわら,内輪で金融業を始めます。同郷の出身者などを相手に,一時は自分の月給の数倍の金銭を貸し付けていたようです。
一葉というと,だれもが貧困生活を連想します。
ところが実際には,士族の娘として生まれ,少女時代は父親の羽振りもなかなかのもので,経済面での不自由はしていなかったのです。
ただ父親の高利貸しについては,一葉は少女らしい潔癖さで嫌っています。
「ただ利欲にはしれる浮よの人あさましく厭(いと)はしく・・」
という日記の一節は,父親に向けられた言葉でもあったでしょう。
興味深いのは,一葉の人生には,その父親の指向とよく似た面がみられることです。社会的地位(身分)の向上を望むだけでなく,実利(金銭)を手に入れることにも人一倍関心が強いのです。
それは今でいえば上昇指向ですが,当時の言葉でいう立身出世欲のほうが似合っています。
樋口家の家運が傾きはじめたのは,明治20年に父親が警視庁を退職した頃からでした。同じ年に,大蔵省出納局に勤務する長男の泉太郎が結核のために23歳の若さで亡くなり,一家に暗い影が落ちはじめます。
翌年になって樋口家では,まだ15歳にすぎない一葉を相続戸主にしました。
女性の戸主は江戸時代には珍しくありませんが,明治の士族階級ではごく少数でした。
さらに翌年,父の則義が事業に失敗し,心痛から体調をくずして亡くなります(結核との説もあります)。この決定的ともいえる事態によって,幼い一葉の双肩に一家の主としての責任が重くのしかかってきました。
当時,一葉は中島歌子の主宰する萩の舎(はぎのや)という私塾に通っていました。和歌の塾ですが,生徒の多くが華族令嬢たちで,上流社会の雰囲気の漂うサロン的な学校です。
ツテを頼って一葉を萩の舎に入れたのは,父の則義でした。「女には学問はいらない」という母の反対を押し切っての入門は,則義らしい指向の表われともいえます。
萩の舎での一葉は,抜きん出た優秀な生徒であり,中島歌子からも可愛がられました。
しかしその一方で,爵位をもつ権門名家の娘たちとの差異は明白でした。一葉が幼い頃から抱いてきた,士族の娘としてのわずかな矜持(誇り)は無残に打ち砕かれ,さらに経済状態においてもはっきりとしたコンプレックスを味わうことになったのです。
父譲りといえる一葉の立身出世指向には,かなり意識的な部分があります。
「かくて九つ斗(ばかり)の時よりは,我身の一生の,世の常にて終らむことなげかはしく,あはれ,くれ竹の一ふしぬけ出しがなとぞあけくれに願ひける」
のちの日記に,一葉はそう回想しています。
萩の舎という上流サロンに身を置きながら,一葉が口惜しさを感じていたことは十分に想像されます。
「くれ竹の一節でも」他人より抜きん出たいという必死な思いは,より現実的な解決法を求める行動へと一葉を駆り立てていきます。
一葉が小説を書こうと思い立ったのは,同門の先輩の田辺花圃(たなべかほ)が「藪の鶯」という小説を書き,33円の原稿料を手にしたことがきっかけでした。その当時,一葉の家の生活レベルならば月10円もあればまずまずの暮らしができたので,33円はかなりの大金です。
田辺花圃の成功で,小説が手っ取り早く金になりえることを一葉は知り,さっそく自分でも書きはじめたのです。 
■生活という名の劇場
明治23年,18歳のときに,一葉は最初の小説を書いています。その後,東京朝日新聞の記者として大衆小説を書いていた半井桃水(なからいとうすい)を訪ね,指導を受けるようになります。
やがて一葉は桃水を慕うようになり,自宅へと足しげく通うようになりました。桃水もまた同人誌を発行し,一葉に小説家としての活動の場を与えようとしました。
一葉の日記には,桃水との男女関係について,はっきりとは記されていません。
日記には一部欠落した部分が随所にあり,それは桃水にかんする記述個所に多いことが研究者によって指摘されています。一葉の死後,妹の邦子か誰かの手で破棄された可能性もあります。
日記にはあまり記されていませんが,一葉は桃水からしばしば生活費の援助を受けています。しかもそうした関係は,晩年まで断続的に続いていたようです。
一葉と桃水の交流は,あるとき突然に解消されます。二人の仲が萩の舎で噂になっていることを知り,一葉は動揺しました。師である中島歌子の勧めもあって,一方的に桃水との関係を絶ってしまったのです。 その見返りに田辺花圃の紹介で,「都の花」という文芸誌に作品発表の機会が与えられました。
この頃の一葉の原稿料は微々たるものでした。実際の生活は,母と妹邦子の針仕事と洗濯で支えられていました。
戸主である一葉は,強い責任を感じていたでしょう。小説で食べることを一時断念し,経済状態を立て直すために「実業」をはじめます。荒物や駄菓子などを商う小さな店を,下谷龍泉寺町に開いたのです。
吉原遊郭に近い下谷龍泉寺町は,それまで暮らした本郷菊坂とはまったく雰囲気の違う町でした。店は,下谷から吉原へと抜ける通り沿いの商店街にあり,隣が人力車夫たちの合宿所になっている二間長屋でした。
店の前の通りは,遊郭へ通う客たちの行き来や,とりわけ人力車の鉄輪の響きが深夜まで絶えません。ある晩,一葉が店前を通る人力車を数えたところ,10分間に75輛もあったそうです(日記「塵之中」)。
現在,一葉たちが店を開いた近くに,樋口一葉記念館があります。
慣れない荒物商売は結局うまくいかず,1年も経たずに店を閉める羽目におちいっています。
ただ,華やかな妓楼の建ち並ぶ遊郭と,その周辺に働く下町の人々の生活ぶりは,のちの一葉の小説に大きな影響を与えました。
「廻れば大門の見返り柳いと長けれど,お歯黒溝(どぶ)に燈火うつる三階の騒ぎも手に取る如く・・」
「たけくらべ」の冒頭に描写された吉原遊郭の光景は,一葉が日々眺めたものでもあったのです。
この頃,一葉は非常に奇妙な行動をみせています。
本郷に住む久佐賀義孝(くさかよしたか)という男をいきなり訪問し,借金を申し込んだのです。
久佐賀は得体の知れない人物で,米相場で大金を手にしたといわれる,いわゆる成金でした。
一葉の唐突な申し出に対し,久佐賀は妾になることを要求します。
一葉はそれを拒絶し,以後の交渉は途絶えたことになっています。
ところがその久佐賀からもある時期,何がしかの金を受け取っていたといわれます。
明治28年の日記では,久佐賀が一葉の家(丸山福山町)を訪ねてきて,夜遅くまで話し込んでいます。
そのおりにも一葉は,60円もの借金を申し込んでいます。
この大金は一説によれば,相場の資金を借りようとしたともいわれます。
もし借金できていたら,一葉の一世一代の大博打がみられたかもしれません。
一葉の日記には,久佐賀との関係もあまり記されていません。
執筆上のスポンサーを求めていたという解釈もありますが,一方で久佐賀のことを隠そうとしていた風もあります。
一葉が,半井桃水や久佐賀義孝からどのような形で,またどのような思いで援助を受けていたのかは,想像するほかありません。
一葉は多くの友人,知人から借金をくり返し,その返済に追われています。
桃水や久佐賀も,そのひとりだったのでしょうか。
一葉の年齢になれば,なんらかの男性関係があっても少しもおかしくはありません。
しかし一葉の場合,単純にそうした視点からだけでは,推し量れない多様な面があります。
明治という,女性にとって開放的とはいえない時代環境のなかで,一葉自身が巧みに隠したり,修飾したからにほかなりません。
手がかりは,日記よりむしろ作品のほうにあるように思えます。
それは「たけくらべ」の美登利と,「にごりえ」のお力の姿です。
「たけくらべ」の美登利は,大巻という遊女を姉にもつ活発でおきゃんな少女です。近所に住む正太という少年にとっては憧れの的であり,子供たちのあいだの女王的存在でもあります。
その美登利がある日(初潮)を境に,髪を島田に結い上げ,大人の女性として変化していく様は,少年期への別離の余韻をこめた小説の白眉ともいえます。
「しかも一言も直接的な言葉を使わず,これ以上正確に,美しく,女のさけ難い生理と,それ故にやがて受けねばならぬ女の運命の哀しさの予兆を,こうまで暗示的に詩的に描いてみせた作品があっただろうか」(瀬戸内寂聴「わたしの樋口一葉」)
酉の市のにぎわいを背景に,美登利はそれまでの日常と訣別し,姉と同じ道を歩むであろう宿命が暗示されています。
ここには女性の性,そして生というものを,﨟長けたといえるほどクールに見つめる一葉の視線が感じられます。
そのクールさがあったからこそ,この時代に女性の生理を真正面から描きえたのでしょう。
それはまた,我が身にも密着した性と生の宿命を,あえて突き放して見ることで核心をとらえようとする,一葉の冷徹さにも通じています。
一方,「にごりえ」のお力は,初対面の客の財布を取り上げ,仲間の女たちに分け与えてしまうような気風のある女です。
そのくせ自分では一銭もとりません。
一見,男を手玉にとるような女でありながら,自分の利には走らず,ひとり遠くを見つめているような魅力的な女性像が描かれています。ここにも性と生を見つめる,女のクールな視線があります。
ここにはまた,男たちから一時期にせよ援助を受けながら,それは自分のためではなく,家族を養うためだとする,他人にはいえない一葉の託された屈折した思いが見え隠れしているようにも感じられます。
かりに男性との関係があっても,一葉にとっては表立って恋とはいえない内面的な事情が秘されていたと思われます。
文壇に名が知られるにつれ,銘酒屋の建ち並ぶ丸山福山町の一角にある一葉の家には,「文学界」の若い同人たちが数多く訪れるようになります。
馬場孤蝶,
戸川秋骨,
島崎藤村,
上田敏,
川上眉山,
幸田露伴,
斎藤緑雨
といった人々です。
森鴎外にいたっては一葉を崇拝するあまり,葬儀のときに騎馬正装での参列を申し出て,家族から断られています。
一葉は彼らに囲まれ,ときにはご馳走をしたりして,楽しいひと時を過ごしています。
一葉の短い生涯で,もっとも華やかで充実した時期だったでしょう。
その姿は不思議なほど,正太の憧れであった美登利や,苦界にあっても男たちや仲間に慕われ,「姉さま風」に振る舞うお力と重なります。
そのお力に,自分と同じ頭痛という病気を与えたところに,一葉らしい面目と,たどり着いた境地がかいま見られます。
一葉は「たけくらべ」の少女美登利に「そうありたかった少女の姿」を,そして「にごりえ」のお力に「こうありたい大人の女性の姿」を,託したのではなかったでしょうか。
ただしそれは単純な理想像ではなく,肉体の苦しみ,生の空虚感に満ちた宿命的,あるいは悲劇的ものでした。
一葉なりの,女の個人史ともいえます。
美登利からお力へ,それは奇しくも一葉の頭痛の歴史とも符合しています。
もちろん頭痛は,一葉の生涯を覗く小さな穴にすぎません。しかし同時に,一葉の生涯を通底する神経軸のようなものでした。
一葉の女としての生々しさ・・その片鱗を,頭痛という肉体上の異変に予感させる。一葉はそれを心得たうえで,お力を創造し,その原点としての美登利を創造した・・そんなふうに思えてくるのです。
「にごりえ」「たけくらべ」「大つごもり」といった代表作のほとんどを,わずか1年余のあいだに書き残し,一葉は24歳の11月に兄と同じ結核で急逝しました。
彗星のようにはかない生涯ともいえます。が,一葉という女性は思われている以上に人間臭く,油断のできない,それだけ魅力的な存在でもあるのです。 
■頭痛という不思議な病気
明治26年の一葉の日記に,
「脳痛はなはだしく,終夜くるしみて胸間もゆるが如く,人生の浮沈人情の非情こもごも感じ来りて,くるほしき事いうべくも非ず(あらず)」とあります。
こうした苦しさは,実際に激しい頭痛持ちの人にしかわからないでしょう。頭痛の経験のない人は,「たかが頭痛でずいぶん大げさな」と感じるかもしれません。
頭痛は,周囲の理解が得られにくい不思議な病気です。胃痛や腹痛だと,周囲も「どうしたの?」と心配してくれますが,頭痛に対しては「ああ,そう」といった程度の反応しか示しません。
しかし頭痛は,15歳以上の約40%が悩んでる病気です。患者数にして3000万人以上ともいわれます。
これほど苦しんでいる人が多いにもかかわらず,なぜか軽視されてきたのです。
最近になって,頭痛のメカニズムが少しずつ解明され,また有効な治療薬がいくつか開発されるようになりました。その影響もあって「頭痛外来」を設置して専門医をおく病院も増え,ようやく本格的な治療が始まったといえます。
頭痛の大半を占めるのは,原因のはっきりしない慢性頭痛です。慢性頭痛には大別すると,「片頭痛」と「緊張型頭痛」があります。
片頭痛は,ズキンズキンという強い痛みがして,吐き気がともなうことも少なくありません。
光や音にも過敏になり,テレビを観ているのもつらい状態にもなります。
片頭痛といいますが,実際には頭の両側に痛みが起こる人もたくさんいます。
男女比でいうと,10歳くらいまでは差がないのに,15歳以上では女性のほうが3-4倍にもなります。このことから,女性ホルモンがなんらかの形で関与しているといわれます。
一葉の日記には,母親の多喜が「血の道」でしばしば寝込んだことが記されています。一葉自身も同じ症状で,朝遅くまで寝込んでいたこともあります。
母娘に共通して,生理不順や生理痛があったのでしょう。
ただ最近の研究では,片頭痛は女性ホルモンの変化に加えて,なんらかのストレスを受けたときに起こりやすいことがわかってきました。 ストレスを受けると,脳の血管をとりまく三叉神経が刺激を受け,セロトニンという神経伝達物質が働いて血管を収縮させます。
その後セロトニンが放出されるさい,脳の血管が拡張するとその周辺が炎症を起こし,それが痛み(頭痛)となるのです。
片頭痛の引きがねとなるストレスは,人によって違います。寝不足や寝すぎ,人ごみ,寒さや暑さ,室内での軽い酸欠,空腹,食べ物や飲み物など,さまざまです。
飲食物では,チョコレートや赤ワイン,匂いの強いチーズ,化学調味料などによって頭痛を起こす人が多いようです。
また仕事などで忙しいときより,仕事が終わってホッとした翌日に起こりやすい傾向もみられます。 
■片頭痛と緊張型頭痛との違い
もうひとつの緊張型頭痛は,首や肩のこりをともなう頭痛です。頭が締め付けられるような痛みや,重い感じがすると訴える人が多くみられます。
一般的には寝込むほどひどい症状ではありませんが,毎日のように起こる人,めまいをともなう人もいます。
男性にも多く,男女比ではほとんど違いはありません。
緊張型頭痛は脳とは関係なく,頭・首・肩の筋肉が緊張から疲労し,収縮して血流が悪化することから起こります。
頭と首と肩の筋肉(後頭筋群や側頭筋群,僧帽筋群など)はつながっているため,頭痛だけでなく,首や肩のこりが一緒に起こります。また頭の筋肉が収縮するため,締め付けられるような痛みとなります。
筋肉の緊張は,長時間同じ姿勢をつづけていると起こりやすくなります。
そのためパソコンやデスクワークを長時間つづける人に多くみられます。
精神的なストレスを受けているときも,緊張型頭痛が起こりやすくなります。
人間関係や仕事上の悩みなどをかかえているときです。
たとえば苦手な人のことを考えたり,当人に会ったりすると,無意識に体が堅くなります。
そうした状態が長くつづくと思えばいいでしょう。
精神的ストレスを受けると自律神経が刺激され,血管が収縮します。それにともなって筋肉も緊張し,収縮するため,頭痛が起こります。
一葉の場合でいえば,戸主としてなんとか生活の糧を得なければならないという思いや,人に頭を下げて借金することは,大きな重圧となっていたでしょう。早く小説で身を立てたいという強い気持ちも,プレッシャーになっていたはずです。
小説を書くこと自体に加え,こうした精神面のストレスが頭痛の原因になっていた可能性は十分にあります。
ところで片頭痛と緊張型頭痛は,同じ慢性頭痛とはいっても,治療法はまったく違います。
たとえば片頭痛は血管の拡張から起こるため,一般的には頭を冷やすほうが治りやすくなります。ところが緊張型頭痛は筋肉の緊張と血流の悪化が原因なので,患部を温めてリラックスさせたほうがよくなる傾向があります。
頭痛が起こったとき,シャワーを浴びたり,お風呂に入る人も多いでしょう。
緊張型頭痛の場合は,シャワーの刺激やお湯の温かさで筋肉がほぐれ,血行もよくなるので,いい方法だといえます。
ところが片頭痛では,血管の拡張をうながし,症状がかえってひどくなってしまうこともあります。
一葉は頭痛のとき,寝るという方法をよくとっています。
片頭痛が起こると外界の刺激(光や音)に過敏になるので,寝て刺激をさけるのもいい方法です。
しかし緊張型頭痛では寝るよりも,むしろストレッチなどの運動によって筋肉の緊張をほぐしたり,ウォーキングや散歩で気分転換を図るほうがおさまりやすい傾向があります。
頭痛が起こると,まず市販の解熱鎮痛薬を使う人が多いはずです。
しかし病院では,頭痛のタイプによって違う薬が処方されます。
片頭痛の場合には,血管の拡張や炎症を抑える薬を使います。
それに対して緊張型頭痛では,緊張をほぐし,体や心のストレスを緩和するため,筋弛緩薬や抗不安薬,抗うつ薬などを使います。
片頭痛と緊張型頭痛では,これほど違いがあります。
頭痛がなかなか治りにくいのは,じつは片頭痛と緊張型頭痛を併発している人が少なくないからです。
一葉も,そのひとりだったと思われます。
寝込むほどの激しい症状に加えて,一葉にはひどい肩こりもあったからです。 
■一葉の日記に頭痛のきっかけを探る
病院では最近,患者自身に「頭痛日記(日誌)」をつけてもらうように指導しているところが増えています。
頭痛日記とは,頭痛が起きたときに,その日時,症状,対処の仕方などを記録しておくものです。
受診のとき頭痛日記を医師にみせることで,頭痛のタイプや程度を知るための手がかりとなります。
頭痛日記には,できれば前日の出来事や食べ物,また天候の変化なども記録しておくほうがいいでしょう。
とくに片頭痛の場合には,さきほど書いたように,自分でも気がつかないことが頭痛の引きがねとなっていることがあります。
また緊張型頭痛でも,知らずに精神的なストレスを受けていることがあります。
日記をつけることで,それを自覚できるようになるからです。
一葉は自分の日記にしばしば頭痛のことを記していますが,その前後の記述を読むと,非常に興味深いことに気づきます。
要点だけを抜粋してみます。
<明治25年>
 2月22日 
「雨天寒し」,
「風邪にやあらん,頭痛たへがたければ此夜は早くふしたり」
 7月23日 
「一同帰宅の後頭悩はげしく暇を乞ひて灸治に行んとす」,
「途中大雷雨」
 8月24日 
「晴天ながら折々に鳴神の音するはやがてここにも降らんとすらん」,
「おのれも今宵はかしらいといたくなやめば早う臥たり」
 8月29日 
「晴天時々雷鳴す」,
「頭痛いとはげしければ暫時ひる寝」
<明治26年>
 2月6日 
「空はくもれり,又雨なるべし」,
「かしらはただいたみに痛みて何事の思慮もみなきえたり」
 4月25日 
「六時過るより空ただくらく成に成て雷雨昨夜にかはらず」,
「かしらただなやみになやみて雷雨のおそろしきも何も耳に入らず」
 5月21日 「雨降る」,「これより脳痛はなはだしく終夜くるしみて胸間もゆるが如く」
これらの記述から,一葉の頭痛は天候の影響を受けて起こりやすいことがわかります。とりわけ雷鳴・雷雨のような,天候の変わり目,低気圧の接近が,きっかけとして目立っています。
この傾向は,一葉が下谷龍泉寺町に店を開いてからもみられます。
8月20日からは千束神社の大祭で,商いも忙しく過ごしていますが,その間,幾度か急な雨に見舞われています。
その最後に一葉は,「此処(このところ)四五日事のせわしさなみなみならざるが上に脳のなやみつよくして寝たる日もあり」と記しています。
さらに9月1日にも,
「例之脳病起りてしばしもたつことあたはず終日ふしたり」,
「午後より雷雨おびただし」
とあります。
天候の悪化や低気圧の接近が頭痛の引きがねとなることは,けっして珍しくはありません。
原因ははっきりしませんが,憂うつな気分になりやすいことに加え,気圧の変化そのものが脳血管や血圧になんらかの刺激を与えている可能性もあります。
一葉は明らかに,天候の変化の影響を受けやすい女性だったといえます。
一葉の日記からはそれ以外にも,萩の舎の会席などで大勢に会ったあと,借金の返済が迫っているとき,親戚のごたごたに巻き込まれて憤慨したとき,祭りで商いが忙しかったときなどにも,頭痛が起こりやすいことがわかります。
気ぜわしさが,頭痛のもうひとつのきっかけになっていたようです。
一葉自身は気づいていなかったでしょうが,頭痛日記によって自分なりの頭痛のきっかけがわかれば,対策をとることができます。
今日(明日)は頭痛が起こりそうだと思えば,睡眠(寝不足,寝すぎ)に気をつけたり,ストレス解消(音楽や運動,趣味など)で気分転換を図ったりできます。かりに人間関係や食べ物が頭痛のきっかけなら,できるだけそれを避ける方法もとれます。
慢性頭痛に悩む人にとって,頭痛日記は予防のための大切な情報源なのです。
一葉の日記は,その良い例ともいえます。 
 
雑学の世界
http://www.geocities.jp/widetown/japan_den/japan_den042.htm