[東京本郷] 樋口一葉邸



菊坂界隈~樋口一葉の菊坂旧居跡~
本郷3丁目交差点から本郷通りを行く。
本郷4丁目と5丁目の間の坂が菊坂である。
本郷3丁目の四ッ角で乗り物を捨て、本郷通りを東大赤門の方へ70メートルほど歩み、文京センターの角を左へ折れる道を菊坂の通りという。
魚屋、八百屋、菓子屋、葬儀屋、そば屋、せんべい屋、本屋、
それから何を売っているのか得体の知れない構えなど、およそ東京のどこにでもある。
ありふれた映えないその通りを、300メートルほどもうねうねと行く。
近藤富枝『本郷菊富士ホテル』
震災にも戦災にも焼け残り、明治 ・大正の面影を残している。
菊 坂
本郷4丁目と5丁目の間
「此辺一円に菊畑有之、菊花を作り候者多住居仕候に付、同所の坂を菊坂と唱、坂上の方菊坂台町、坂下の方菊坂町と唱候由」
(『御府内備考』)
とあることから、坂名の由来は明確である。
今は、本郷通りの文京センターの西横から、旧田町、西片1丁目の台地の下までの長い坂を菊坂といっている。
また、その坂名から樋口一葉が思い出される。
一葉が父の死後、母と妹の3人家族の戸主として、菊坂下通りに住んだのは明治23年(1890年)であった。
今も一葉が使った掘抜き井戸が残っている。
一葉の父は則義。
一葉の父則義は、夏目漱石の父直克と東京府で同僚だったそうだ。
歴史・文学上で則義の名は樋口一葉の父以外に聞いたことがない。
寝ざめせしよはの枕に音たててなみだもよほす初時雨かな
樋口夏子(一葉)
菊坂は夏目漱石の『こころ』にも一度だけ出てくる。
私はとうとう万世橋を渡って、明神の坂を上がって、本郷台へ来て、それからまた菊坂を下りて、しまいに小石川の谷へ下りたのです。
菊坂を下っていくと、旧菊坂町の案内があった。
旧菊坂町(昭和40年までの町名)
この辺一帯に菊畑があった。
坂を菊坂といい、坂下を菊坂町と名づけた。
元禄9年(1696年)町屋が開かれ、その後町奉行支配となった。
町内には、振袖火事の火元の本妙寺があった。
下通りには、女流作家樋口一葉が住んだ。
現在旧居跡には使った掘抜井戸が残っている。

下町文京区
http://book.geocities.jp/urawa0328/sitamati/kikuzaka.html





掘抜井戸
樋口一葉の菊坂旧居跡
文京区本郷4-32・31
一葉は、父の死後母妹と共に、次兄虎之助のもとに身を寄せた。
しかし、母と虎之助との折り合いが悪く、明治23年(1890年)9月、3人は
旧菊坂町70番地(この路地の菊坂下道に向かって右側)
に移ってきた。
ここは安藤坂の萩の舎(一葉が14歳から没するまで通った歌塾)に近いところであった。
明治25年(1892年)5月には、この路地の反対側の下道に面したところ(菊坂町69番地)に移った。
ここでの2年11ヶ月(18~21歳)の一葉は、母と妹の3人家族の戸主として、他人の洗濯や針仕事で生計を立てた。
おそらく、ここにある掘り抜き井戸の水を汲んで使ったと思われる。
きびしい生活の中で、萩の舎の歌作、それに必要な古歌や古典の研究をし、上野の図書館にも通い続けた。
そして、萩の舎での姉弟子田辺花囿(かほ)の影響で、小説家として立つ決意をかため、
半井桃水(なからいとうすい)
に小説の手解きを受けた。
明治25年(1892年)3月「武蔵野」創刊号に小説『闇桜』が掲載された。
また、小説と共に貴重な日記はここに住んだ明治24年(1891年)4月1日から書き始められている。
いわば、ここは一葉文学発祥の地と考えられる。
菊坂上通りに、一葉や母のよく通った質屋が今もあり、その土蔵は一葉当時のものである。
-郷土愛をはぐくむ文化財-
文京区教育委員会

下町文京区







『昔空間散歩の薦め』
本郷 -菊坂の与太郎
『一葉忌』
本郷三丁目 界隈【H20年版】
◆<起点御案内>   ・「法真寺」 桜木の宿より出発は 【H21年版】第30回一葉忌へ
□プロローグ 2007年秋、櫻木神社を調査している際石灯籠を眺めている方をお見受け致しました。
お声を掛けると清瀬の郷土史会の方、鳥居の造詣について興味のあるお話を聞かせていただきました。
それが縁で、メールのやりとりもありお友達になっていただきました。
名前を(わび亭)さんと申します。
またいつか菊坂でお逢いするのを楽しみにしていますよ。
・巡り来る  季節待ちわび  紫陽花は  輝き渡る  時を迎えし(わび亭)
■そして「一葉忌」に素敵な遊諧師と再会しました。
・巡り来て 櫻木の縁 尋ぬれば 炭団の紅葉 再び燃ゆる (さび亭)ということになりました。
幸せでした。
一葉忌に来ていただいた翌日11/24は、(わび亭)氏に招かれ清瀬へ・・
野火止の庵にて素敵な音楽と、呈茶を頂き、さらにお友達の経営される「手打ち蕎麦」に預かり、界隈を(さび亭)は俳諧ならぬ徘徊をしてまいりました。
電気王、松永(耳庵)の残してくれた庵(現・新座市が管理)で繰り広げられたVnとギターの柔らかい和(なごみの)心温まる音でした。
手持ち撮影で見難いですが、その恵みのお裾分けです素敵な音楽をお聞きになりながら、お読み下さい。)
11/24日収録「睡足軒」のコンサート+野火止の「平林寺」へ行きました。
■第一部「一葉さんこんにちは」
 ●基点 丸の内線 『本郷三丁目駅』 ホームから上がり、身支度(洗面)を済ませたらイヨイヨ改札を出ましょう。
★この駅は待ち合わせにピッタリ、なにせ改札が一つです。
スタート時間にもよりますが、「法真寺」の「一葉忌」は毎年9時半から始まります。
まずは「法真寺」へ向かいましょう。
①改札を右に出て名曲喫茶「麦」の前を通り本郷通りに出ます。
通りに出て左、「本郷三丁目交差点」に向かい歩きます。
本郷三丁目交差点では、老舗「かねやす」が渡る手前にあります。
勿論、樋口一葉がいたこの頃は、まだ市街車電車(開通は、須田町線がM37/01
・上野広小路線は、M37/11)軌道も本郷三丁目には無い頃で、明治22年迄の拡張前は老舗『かねやす』も「三原堂」のもっと横断歩道側にあったわけです。
★明治24年8月3日「かねやす」にて小間物をととのふ、日暮れて帰る」とある。
 丁度、その頃の本郷三丁目の写真があるので小さいですが情報として載せておきます。 ・その2ヶ月後の明治24年10月15日仙臺堀は神田川の、上水樋橋の下流に、新しい橋が架かりました、その橋は鉄で出来た現在の「新御茶ノ水橋」です。開通、その二日後。★明治24年10月15日「今宵は旧菊月十五日なり。
・・・いでやお茶の水橋の開橋になりためるを行みんなはなど国子にいざなはれて、母君もみてこなどの給ふに家をば出でぬ。」とある。
M24/1以降の春日通り(蔵書 ふるさとの想い出 写真集 MTS 文京 P25より)国書刊行会発行
現在の『かねやす』前を通り、横断歩道を渡るとサファリ帽を被った素敵な髭のお巡りさんがいた本郷四丁目の交番、その裏左手奥には、一葉(なつ)・クニらが散策した【本郷薬師】が見える。
★明治26年3月12日のよもぎふ日記に
「今宵」くに子と共に薬師の縁日そぞろありきす。」
とあります。
でも今は寄らないで直進。
足元に気をつけると緩やかな下り坂《見送り坂》
「橋南三丁目」
美味しい甘食の「明月堂」前を通る、そして昔の太田領の境であった【東大下水支流】の橋跡を渡りパチンコ屋さん前を通ると、菊坂通り入口に差し掛かります。
「東大赤門前」へ向かう・・すると緩やかな上り坂これを《見返り坂》「橋北五丁目」と云います。
そのまま直進して行くと道路反対、なにやらTVで見たビル。
『角川書店』ビルです。
今度は、左手にちょっと凹んだところが在ります
・大正10年 (1921) 1月上京、同年8月まで「宮沢賢治」が菊坂下道に下宿し生活の糧に、文信社(現大学堂メガネ店)で硬筆(ガリ切)、謄写版刷りの筆耕や校正などをした出版社前を通過。
もう右手先には東大赤門が見えていることと思います。
アト、ちょっとです写真屋さんが左にありますか? 
あれば間違っていません。
この写真屋さん『須藤カメラ店』は、先のノーベル物理学賞受賞したカミオカンデで有名な小柴先生や皇太子妃雅子さまの記念写真を撮影した写真屋さんです。
赤門前の和菓子「扇屋」前を通過し、赤門ビル角「今はコンビニ」を左に曲がり奥へ進みます。
左に急に開ける駐車場が『櫻木の宿跡』ですその奥が「法真寺」受付で記帳し、到着です。
※今回わび亭さんとは昨年、お逢いした「櫻木神社」前で、お会いし薬師堂前を通過法真寺へ向かいました。 H20.11/23 与) 
②1876(M9)-「法真寺」手前 一葉4歳が幼い時幸せな時を過ごした大切な場所。
■御守殿門内部から見た【櫻木の宿】修復を待つ赤門内から 1925(大正14)年の写真の右側が「赤門ビル」その間にかわら屋根の二階家がある。
櫻木の宿が何時、壊され建て直されたか判らないが馬車と一号ポストがあるビルとの間、路地奥に見えるのがひょっとすると、櫻木の宿内の3坪程の瓦葺二階家屋部分かも知れない。.
⇔1925(大正14)年 修復を待つ「赤門」より 本部施設部所蔵写真よりトリミング  法真寺に隣接したi庭にはシンボルの櫻の木と池そして倉もある、二階屋に一葉一家は住んでいた。
経済的にも家庭的にも恵まれていた時代、M10元町に存在する頃の「旧・本郷小」から秋には家の近く、私立吉川小学校へ通った。
★「ゆく雲」 『上杉の隣家は何宗かの御梵刹さまにて寺内広々と桃桜いろいろ植 わたしたれば、此方の二階より見おろすに雲は棚曳く天上界に似て、腰ごろも観音さま濡れ仏にておはします御肩のあたり 膝のあたり、はらはらと花散りこぼれ・・・』とある。
※また福満氏の話では法真寺入り口の角、医療器具屋の「お婆さん」が幼い頃「なつ」ちゃんと遊んだと話していたそうである。
③「附木店」 1877(M10)03 旧・本郷学校に入学後、秋に近所の私立【吉川学校】に入学。
④「不求橋」「本妙寺谷」-「番所跡」-「本郷丸山局店」
⑤「丸山通」【下道】大下水の当時を偲びながら歩く。
⑥宮沢賢治の菊坂下宿前通過
⑦「炭団坂」下の二等辺三角形
⑧「まちのえき」そして、一葉井戸界隈70及び69へ
・1883(M16)11歳の時青海学校小学高等四級首席で卒業するも母の反対に遭い退学する。
・1886(M19)中島歌子の歌塾{萩の舎}に入門-1889(M22)17歳の時父が事業失敗後、病没。
母そして妹クニと共に次兄「虎之助」宅へ同居するが折り合い悪し×
・1890(M23)09 懐かしの本郷區へ    ・・選んだのは菊坂であった。
■第二部「一葉さんこんにちは」
⑨一葉井戸近くの最初の家70番地に転居したのでした。
その後69番地に移ります。  
⑩真砂町・鐙坂の事。
⑪伊勢屋質店内見学をし姉の久保木方位置確認
・1893(M26)2/1下谷區龍泉寺町に転居、荒物・駄菓子屋を営む。
⑫1896(M29)24歳「たけくらべ」を「文芸倶楽部」に発表。11/23日肺結核にて没。
偲びつつ終焉の地を訪ねたいと思っております。
      菊坂の与太郎・・・つづく

本郷界隈  古い資料による散歩
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明治24年,本郷三丁目
1925年の写真,右側が赤門ビル,その左にかわら屋根の二階家









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11月23日は、『一葉忌』です。
赤門前の「櫻木の宿」隣の「法真寺」はいつも通りです。
到着時間にもよりますが、本郷三丁目から~東大赤門前の「法真寺」でお線香を手向け、来た道を少し戻り宮田花店脇の
「旧・附け木店」
と呼ばれていた道を通り、最初の変形四差路で立ち止ります。
右側地帯が「附け木店」と呼ばれていたところで右に曲がる一・二軒目辺りが稲葉家、
昔のお姫様であった「稲葉鉱」一葉とは乳姉妹(お母さんの乳房を分けた間柄)です。
その隣には(上)大昔の地図に、羊羹の「藤むら」位置と書込みがあるところです。
変形四差路から、また歩き始め、金魚坂で有名な江戸時代から続く問屋「吉田金魚店」の前を通り、さらに進み右コインランドリー前を通過すると反対側の壁面に、眼を奪われることでありましょう。
何故にと思う所に「棟方志功」との出会いがあり左に続く建物がある、そうここいらが
『吉川学校』
の位置で、昔の寺小屋延長の私塾でした。
尚、右側には児童新聞・明治館なる物がありました。
そのまま進むと行き止まりとなり、Tの字を左に降りて行きます。
すると、現在の「菊坂通り」に出ます。
正式には本郷通りに面している「宇野千代」さんで有名な【燕楽軒】の角から伸びている左手の道は玉川一郎先生によると
「菊坂の通り」又は「新道」
と呼ばれているものです。
「新道」と呼ばれるようにこの道は明治22年に出来た道で、明治16年頃の参謀本部陸軍部測量局地図ではまだ道が有りません。
それもその筈、加賀藩邸より流れ出「東大下水支流」が流れていたからで、遥か昔は船の通れる位の川で大田領との境ともいわれていた場所です。
近世「東大下水支流」となった川は途中から軒下を通り、建物の裏を通って下道の入口近くまで暫く、姿を隠します。
「新道」を右に進み、菊富士ホテルの記念碑創設にも係りのあるある魚よしの徳さんこと徳三さんのいらした店前は通りを挟んで「松坂屋」質店がありその隣奥には、数段の階段を登ると白い蒲鉾型の屋根を持つ門がありその奥に玉川一郎先生の終の棲家がございます。
(図書出版手前)そして※旧・【柴田商店ビル】前の変形交差点に達します。
この交差点、カーブミラーも付いております様に、ちょっとズレています。
故に、衝突事故が多いのでお気をつけ下さい。
●コレ、右に曲がり坂を上がりますと、近世では明暦の大火の火元とされた(汚名を被った説のある)「本妙寺」現在巣鴨に退転。
や「長泉寺」に繋がる「名無し坂」」と呼ばれていた坂でその後「女子美の菊坂校舎」が「縮小していく本妙寺」の跡地敷地内に建ち、続いてあの坂を上がり切った左奥に、有名な文士・画家・政治家になった人々が住んでいた羽根田氏の「菊富士ホテル」へと繋がっています。その後ここは「地獄坂」と呼ばれた時期が有りオヤッと思われるでしょうが(後に本郷税務署・そして公認会計士会館となり、後現在のマンションへと昔の「本妙寺」総門辺りは変貌しています。)
詳しくはHP■『本妙寺跡』を尋ねて【本妙寺総門門前坂】にて・・・。
●コレ、左に曲がりますと、「本妙寺谷」となり昔は東大下水支流の為、遮られておりました。
それが明暦の大火以後の地図には、現・本郷小学校又は男女平等センターへと行く「本妙寺坂」と呼ばれている坂に繋がっているのが確認されています。
この「本妙寺谷」には東大下水支流に掛かる小渠、不求橋(もとめずの橋)という土橋が掛かっていました。
橋は道幅よりも少し狭く、少し柴田商店寄りです。
整理すると、本妙寺惣門に続く上り坂御門前を上がる時、左の角に「中村屋」と言うお蕎麦やさんがありますがその間に、「本妙寺谷」が在り、総門に対した上り坂が「本妙寺坂」という事です。
さて、前で「東大下水支流」となった川は途中から軒下を通り、建物の裏を通って下道の入口近くまで暫く、姿を隠します。と書きましたがその東大下水支流がここ「本妙寺谷」で姿を現すのです。
「本妙寺谷」の、不求橋(もとめずの橋)の下を流れる川は、菊坂通り下道(一部の書物に丸山通との記載も在る。)を通り、菊坂通り上道に平行して菊坂通り下道として菊水湯近くまで流れていきます。この※旧・【柴田商店ビル】は注目するべき場所で、御一新頃まで小石川養生所の所有地でもあり、「道造り屋敷の残地」そして最近、古地図で発見したことなのですが寛文時代にはなんと「番所」が存在しておりました。やはり特殊な土地でした。
実は、吉原や、湯島の大根畑が規制に遭い、この場所にはこの角店旧・【柴田商店ビル】辺りから、「長泉寺」前の下道への降り口まで、「本郷丸山局店長屋」が誕生していたのです。本来雪崩地だったものが道造り屋敷として、造成、整備された区画ですが。
●「本妙寺谷」ここは、海岸の入り江時代もあったようで急激に下って行きますが、まあ一葉忌に因んで、この東大下水支流の流れに沿って当時を偲びながら歩いて見て下さい。右側には道の半分位の東大下水支流の流れがあります、出来たら★道の左側半分を歩いてみて下さいね。
そうそう、左側、「小笠原佐渡守屋敷」側の雪崩地は、伊賀者が住んでいたことがありますよ。
興味のある方は調べてみて下さい。
・下道の 枯れ葉踏みつつ 右京寄り 一葉女史も 歩む道なり
※丸山通は昭和二年頃、暗渠化されるまでは、加賀藩邸より出る「東大下水支流」が表を流れていました。
従って宮沢賢治もこの大下水を避けて歩き、人生を見つめて過した事でしょう。
昔左側は、1.5m位の石垣が道なりに続いておりました。
さて、右側では所々石垣が露出していたと思います、幅2-3cm程の筋が入っている布石積み、それがほぼ元禄期の道造り普請の跡のようです。
これは家屋の後ろ側に同じ様相の石積みが続いていることから判ることです。 
尚、東京大空襲の時、下道は、宮沢賢治の下宿した場所の手前隣、小さな井戸を挟んだ隣で焼止まったということで、米軍の空襲後調査写真と一致しています。
宮沢賢治の菊坂通り下道の下宿先を進み、菊水湯のエントツが見える辺り稲垣邸の切れたところ二等辺三角地点は、とても絵図証文の名残を感じる場所です。
NPO・雑歩庵の主宰する「まちのえき」そして現在開催されている
「山内豊子 合間写真展 ―本郷―」 2008.11.19~11.24 10:00~18:00 (24日のみ17:00) 
入場無料 まちのえき隣「路地ギャラリー 夢のとおりみち」開催。
ここの山内さんは、以前一葉が荒物・駄菓子屋を商っていた吉原大門近くから引っ越したら、なんと終焉の地に近かったという、一葉さんに縁のある、写真家です。

本郷界隈  古い資料による散歩
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■第二部
「一葉さんこんにちは」昔空間散歩の薦め
■訪問致しました。◎一葉井戸近くの最初の家70番地に、到着。
※今回は行き止まりの路地、私有地のため普通は「立ち入り禁止区域」
★スペシャル★
以前発表した、不明だった「70番地の位置」少しでも一葉女史の生活空間を感じとりたい為、、隣の家(同番地)の管理者に御願いし、一葉一家が住んでいた隣から全体を把握、その今でも残っている『昔空間散歩』風の囁き・におい・雰囲気を体験して来ました。小さな青い屋根が目印です。 この場所で、何時か句会を模様したいものです。
丁度他の一葉ファンが井戸の辺りで、本来の位置を知らないようで、「あの階段の上左側辺りに住んで居たんだってよ・・」などと、周りに住んでいる居住者にお構いなく興奮したのか大きな声で喋っているグループが参りました。「シー!!」路地に入る前に解説や話は済ませておきましょうね御願いします。 
この事から判るように。
御近所さんの誰かが、井戸を使い始めるとその音、挨拶の声、井戸端会議の声がここ路地屋にも聞こえます。
一葉一家も、おさんどん、洗濯などの度に、この人の集まる井戸に通ったことでしょうね。
辺りは普段とても静かで、風の囁きが聞こえる空間です。
風が吹くと窓ガラスが揺れガタガタと軽く鳴り、大風が吹くと木造の家を揺らす事でしょう。
その代わり、朝方などは今も聞こえる「東叡山からの鐘の音」や、「鳥の囀り」に起こされたことでしょう。
夜ともなると、70番地前の路地奥に、東側からの月光が射し込み、うす青く浮かぶまばらな路地の敷石、とても風情が在ります。 
初冬の夜、きっとこんな光景を一葉も目にしたんだろうなあと、容易に妄想出来た与太郎です。
「ああ、この下を樋口一葉一家が出入りをし。生活に悩み。
1860年創業の伊勢屋質店へ通い。肩こりと偏頭痛に悩ませられながらもあの素敵な作品を生み出したのか・・と。
・・・そして路地に入る角の二番目に住んだ菊坂下道に面する角の家も是非見て下さい。 
そう、窓の外には細道とさっき避けて来た「大下水」が流れる菊坂下道が横たわっており。
向かいの上道からの声が聞こえるのであろう。
明治26年3月12日
「我が家は細道一つ隔て、上道りの商人どもが勝手とむかひ合居たり。
されば口さがなきものどもが常にいひかわすまさなごとどもいとよく聞ゆる」 
よもぎふ日記
●一葉の菊坂通り下道・下宿先 ①70番地  / ②69番地 (馬場胡蝶や樋口一葉事典は旧住所表記の取り違いによる間違いとのこと・・)決して、一葉井戸の先階段を上がった所ではない、階段を上がって鐙坂又は真砂町にあったのは明治27 年(1894)22歳: 2月「天啓顕真術会」(てんけいけんしんじゅつ)という新興宗教団体の久佐賀義孝、という怪しげな訪問先である。※Dr.黒石の、最近思うことかくしてひが者一葉の抵抗は、・・・〇菊坂町七十番地の井戸をあがったところに天啓顕真術会 久佐賀義孝久佐賀義孝の家は鐙坂(あぶみざか)にあった。菊坂に住んだときと時代が違うが、菊坂の家から直ぐ ...に記載されていた。http/www21.big.or.jp/~pcs/ent/omoukoto/2007_09/zakkan.htm  参照。では、コースに戻り一番目の家から二番目の家(一葉井戸の路地出入り口、角左)、お勝手が下道に向いていたのであろうか、『首夏水』(しゅかのみず)いささ川 きのふ(の)春のおもかげも かへらぬ水に かはづ鳴くなり(夏子M26年5月 そして、下道+東大下水支流の向うの上道側の情景を憂いている。では、あの菊坂の通り新道)にも関係している、伊勢屋質店(永瀬家)を尋ねてみ.ることにしましょう。
一葉井戸路地を、左に出て東大下水支流の流れに沿って歩くと「水無川理髪店」(旧・山崎理髪店)近くにスグ、三つの橋があります。一番手前が菊坂上道に繋がる橋でちょつと大きな橋です。
【菊坂橋】規模は小さいですが、手摺り欄干の付いた立派な橋でした。ここいらは上流からの合流地点でもある為、水量も有り、大雨など降ると子供の背丈位の深さがあったと古老からの聴取で判明した。
菊坂橋の位置は最近まで、二つの候補場所があったようですが、正解はココ、
明治の地図で見る番地、菊坂48番地です。
(※詳しくは110周年忌記念配布地図参照)
東大下水支流が直角に曲がり「菊水湯」の方に曲がるところへ、二つ目の橋が在り名前はまだ判らない、
三つ目は菊水湯前にあった、菊水湯に入る為の橋であったそうだ。 
菊坂橋を渡り階段を上がり上道の商人どもの菊坂上道に出るこの階段の左側は与謝野鉄幹が住んだ事がある親戚の家で。
我輩も、新築の際仮住まいしたことがある。
なんと昔は「おわい」置き場の時もありました。
【伊勢屋質店】さて、この上道を左に降りていくと新道の話しでも出て参りました「永瀬さん」のご厚意により残ることとなりました「伊勢屋質店」です。一葉が通った位置にそのままあります。特に年に一度ですが毎年◆建物応援団や文京の文化環境を活かす会等の主催により内部を、15:30迄に入場された方は拝見する事ができます。火災の時など扉を塗り込める土がいつでも捏ねられる様に準備されていたりと、・・・勉強になります。是非この機会にご覧ください。
伊勢屋質店玄関を出て二時の方向に菊坂の下道へ降りるところが在ります。
(大昔はこの道が上道から下道に繋がる最後の道でした。)特徴は小さな4・5段の階段途中に「消火栓」がニョキっと飛び出ています、そして正面には公園が在ります。思うに、一葉は伊勢屋質店に行く時は、二つ目の橋を渡り菊水湯の釜側、大きなゴミ箱のある、旧・小林理髪店の前を通って真っ直ぐ進み、下道と上道を繋ぐ道を上がり、人目を避けて伊勢屋質店へ通ったのではないかと考えます。
[姉の「久保木ふじ宅」]  下道に下りたら右に行き、突き当たりを右へ曲がると、先程の「菊坂」に戻ってしまいます。何気なく通り過ぎてしまうと分からないので二つ目の左に伸びている路地、角に大きな消火器BOXと町内の掲示板がある所。 手前を覗くと、立派な井戸が見えます。その先右側が姉の「久保木ふじ宅」へとなり、鐙坂で曲がった「東大下水支流」が流れ、大合流地点近くへと出ることになります。
では戻って先に進み右に曲がると真正面に「菊坂」を挟んで「胸突き坂」が見えることと思います。 
この坂が、元祖「△キクザカ」です。、
現在「胸突き坂」と呼ばれており,この坂の途中で寅さんの映画を撮影していたのを幼心に記憶します。  
【菊坂】
◎「喜福寺の尻菊坂が〆くくり」
・・・当時の川柳です。
※今の「落第横丁」の道は、『喜福壽寺』の昔「喜福寺門前」として、「喜福寺裏門前」もそうであったように栄えていました。 
昔からこの道は大事な道であったわけです。
きっと、岡崎本田藩に仕官していた、江戸の歌人「戸田茂睡」も、よく歩いた道であろうと思います。
国立国会図書館蔵の屋敷渡預絵図証文で、道造り屋敷を調査中【胸突き坂】位置に『菊坂』と標記されているのを発見しました。
元禄10年7月21日付けで『本郷丸山片町道造り』の絵圖証文の写しです。   
(Ⅲ)■『喜福寿寺』の御府内寺社備考-第五編 曹洞宗 127より
御覧のように喜福寺の絵図に「菊坂通」の記載があり、この正式名称『横丁』から『胸突坂』に通ずる道こそがやはり川柳にあった通り
「喜福寺の尻菊坂が〆くくり」で正解でした。
 【丸山福山町】
そして、白山通りに出て終焉の地「コナカ裏」の崖地辺りが丸山福山町の家が在った所であり。
毎年多少手前の位置ではあるが『一葉忌』には、温かい気持ちが溢れんばかりに記念碑がお花で一杯になり、呈茶などされ一葉女史の功績が称えられている。普段も彼女を偲ぶファンが絶えない場所である。
偲びつつ終焉の地を訪ねましょう。 
菊坂の与太郎・・・つづく

本郷界隈  古い資料による散歩
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■第四部「一葉さんこんにちは」今後の課題【菊坂篇】
・一葉井戸から、伊勢屋質店への道を、考察する。 済み
・伊勢屋質店内の見学をし、姉の久保木方秀太郎の家位置を確認。 済み 
・玉川一郎氏・金田一春彦氏・の情報による龍泉寺町に転居する前に、一葉一家が荒物・駄菓子店を菊坂下で営んでいたことがあると記載がある??。
※検証要。地域紙 K氏による談。 
・1893(M26)2/1下谷區龍泉寺町に転居、荒物・駄菓子屋を営む。
⑫1896(M29)24歳「たけくらべ」を「文芸倶楽部」に発表
・11/23日肺結核にて没。
■今後の課題、文中にも書いたが一葉女史の菊坂下、もう一つ課題(謎)が残っている。
玉川一郎先生と金田一春彦氏の本をお読みの方ならスグお分かりかと思いますが、菊坂下道で一葉一家が竜泉に引越しする前、生活の為に子供相手の駄菓子を売る店を商っていたという説である。一葉研究会等で、この疑問の話をすると、会合場所で苦笑されるのが、落ちであるが確かに、前記の二書には記録されているまた、玉川先生の文章を読むと、伊勢屋質店の店の様子などが描かれており描写というその点に関しては疑う余地が無い。しかし、一葉の菊坂下での子供相手の商売をしていた場所を表す文を読むとウンなんだ??・・と頭をひねってしまうところがある。また金田一春彦氏の文にも、菊坂下で一葉一家が竜泉に引越しする前、生活の為子供相手に駄菓子を売る店を商っていたという部分がある。 最近、廃刊となっているが注目している文化誌があり、その一つにこの噂についての記載があった。その文章ではどうやらウサギ屋を指しているようですが、一葉さんの日記にも手掛かりが無く、まだ時間が無くて、著者に確認を取っていない現状です。   
H201120 本郷-菊坂の与太郎  
梨木紫雲(梨木庵)にて 以下抜粋資料あり
 参考文献引用資料。
・御府内備考 雄山閣   
・新撰東京名所圖會         
・文京のあゆみ
・本郷小石川區道路台帳  
・加賀殿再訪・西秋良宏編     
・駒込のお富士さん
・「大正の子・本郷の子」玉川一郎著  
・「街を綴る」熊田氏著 ・雲荘随筆
・「十一面観世音菩薩えんき」・・・本郷薬師奉讃会  
・成瀬監督の『晩菊』        
・Kai-Wai 散策 
・各町内、古老の皆様よりの情報+資料等 
・ぶんきょうの歴史物語      
・道路工事監督の渡邊様                     
・今昔東京の坂P259
佐渡之守→佐渡守へH240823 校閲 K様 ありがとうございました。
◎紙面を借りて御協力、感謝致します。            
最新更新H240827

本郷界隈  古い資料による散歩
http://www.geocities.jp/jf1zhe/ichiyouki1.html

















■頭痛と樋口一葉
■樋口一葉,頭痛を語る
井上ひさしさんの戯曲に,
「頭痛肩こり樋口一葉」
というちょっと変わったタイトルのものがあります。
「たけくらべ」「にごりえ」などの名作を残した樋口一葉は,まさに激しい頭痛と肩こりに悩まされた人でもありました。
とりわけ頭痛は,一葉の10代の頃からの悩みの種でした。
「おのれ十四斗(ばかり)のとしまでは病ひといふもの更に覚えず」(「筆すさび」)
という丈夫な一葉でしたが,その後大人びるにつれ,
「ここかしこに病ひ出来て,こと更にかしらいたみ肩などのいたくはれなどすれば,物覚ゆる力とみにうせて耐えしのぶなどといふは更に出来うべくもあらず・・」
と書いています。女性として成熟するにつれ,さまざまな病気,とくにかしらいたみ(頭痛)と肩のはれに苦しめられるようになりました。
「たけくらべ」には,主人公の少女・美登利(みどり)が初潮を迎えたときの,微妙な心の乱れや女性としての変化が見事に描き尽くされています。明治という時代に,公然と語ることなど思いもよらなかった女性の生理を,真正面から描いてみせた一葉の大胆さと,描写の巧みさには驚かされます。
その一方で日記と合わせ読むと,一葉の頭痛はおそらく,美登利と同じような年頃から始まったであろうことが連想されます。
一葉は日記に,頭痛のことをよく記しています。
「頭痛たへがたければ此夜は早くふしたり」
「頭痛はげしく暇を乞いて灸治(きゅうじ)に行かんとす」
「頭痛いとはげしければ暫時ひる寝」
「我脳痛いとはげし。水にてかしらあらひ,はち巻などす」
「かしらはただいたみに痛みて何事の思慮もみな消えたり」
「脳の痛みたへがたくして,一日うち臥したり」 (井上ひさし「樋口一葉にきく」より抜粋)
日記からは,一葉の頭痛がかなり激しいものであったことがうかがわれます。早く床についたり,灸をしたり,髪を洗ったり,なんとか頭痛の解消を試みている様子も伝わってきます。
鉢巻は,机に向かって小説を書くときなど,頭痛対策でよくしていました。
病院から鎮痛薬をもらってもいましたが,あまり効き目はなかったようです。
それでも一葉は薬包紙を,しおり代わりにして本にはさんでいたといいます。何気ない習慣にも,耐えるしかない一葉の頭痛のつらさが偲ばれます。
代表作のひとつ「にごりえ」は,菊の井という銘酒屋で働く酌婦お力(りき)と,お力を目当てに遊びにくる男たちとのやりとりを描いた悲劇的な物語です。
お力は酌婦仲間にも慕われる「姉さま風」の魅力的な女性ですが,同時に,やり場のない生の空虚感を体現した遊女そのものとしても描かれています。
そのまなざしは,世俗の塵のなかから陽の当たる世界を眺めつづけた,一葉自身の視線ともからみあっています。
お力はまた,頭痛持ちの女性としても描かれています。
お力がしばしば頭痛を起こしたことは,小説の文中から読み取ることができます。
ただ,実際にお力が頭痛に悩む場面はごくわずかで,
「お力は起って障子を明け,手摺りに寄って頭痛をたたくに・・」
といった,さりげない一瞬の描写に留められています。
けれどもそのさりげなさが,かえって自分が創造したお力という女性への,一葉の肉体的な,官能的な共感を感じさせます。 
■一葉の頭痛の原因を探る
樋口一葉の頭痛には,いくつかはっきりした原因がみられます。
そのひとつは,さきほどの「筆すさび」のなかで,
「親はらからもみな脳の病ひにくるしむなるを・・」
そう一葉自身が書いているように,親兄弟に頭痛持ちが多かったことです。
頭痛そのものは遺伝しませんが,頭痛が起こりやすい器質を受け継いでいたのです。
二つめは,これも一葉自身の言葉から読み取ることができますが,頭痛が女性としての成熟にともなって起こっていることです。頭痛にはいくつかのタイプがありますが,女性によくみられる「片頭痛」は,思春期や更年期にはじまりやすい特徴があります。
原因は,ホルモンバランスの変化(乱れ)によるものです。そのため若い女性に多いだけでなく,それまで頭痛を知らなかった女性が更年期を迎える頃に,頭痛を起こす例もあります。
三つめは,一葉が強度の近視だったことです。
新しい5000円札にも採用された一葉の肖像は,亡くなる少しまえの23歳頃のもので,実際の一葉にもっとも似ているといわれます。凛とした大きな瞳がなによりも印象的ですが,人の顔すら近くに寄らないと判別できないほどの近視でした。
一葉の親友であった伊東夏子の思い出に,ユーモラスなエピソードが語られています。
歌がるた取りのとき,近眼の一葉がかるたに頭を近づけるため,ほかの人から見えなくなってしまうのです。「かるたが見えないので眼鏡をかけてちょうだい」と注意したものの,一葉は頑として眼鏡をかけようとしなかったといいます。
強度の近視は遺伝的要因によるものが多いのですが,一葉の場合は子供の頃から蔵のなかで本を読みふけったことが,近視の進行をいっそう早めたようです。
強い近視の人は,ピント調節がうまくいかないため,どうしても目が疲れやすくなります。また読書中はまばたきをあまりしないため,涙が不足し,ドライアイによる目の疲れも生じます。
こうしたことから一葉は,眼精疲労にともなう頭痛,あるいは頭重を起こしていた可能性もあります。
四つめは,小説を書くという仕事上,同じ姿勢を長時間つづけざるをえなかったことです。
同じ姿勢をつづけていると,首や肩の筋肉のこりはもちろんですが,頭皮の筋肉も硬くなって血流が悪化し,それが頭痛を引き起こす原因となります。
「緊張型頭痛」といわれるもので,長時間のデスクワークをする人に多くみられます。
これらの要素だけでも,頭痛持ちの資格は十分すぎるほどです。
しかし原因もさることながら,一葉と頭痛との関連で注目したいのは,一葉の「生き方」とのつながりです。一葉の頭痛には,かなり屈折した思いがこめられているように直感されるのです。
それを探るためには,一葉の生涯を少し振り返ってみる必要があります。 
■一葉にみられる父親の残像
樋口一葉は明治5年に東京で生まれました。父の則義(大吉)は東京府の下級官吏でしたが,もとは山梨県塩山市の大菩薩峠を望む農村の出身です。
則義は幕末期に,同じ村に住む多喜(滝子)と一緒になるため故郷を出奔し,江戸に出てきた人です。その後,幕臣の従者などを勤めながら金を貯め,八丁堀同心の株を買って武士の身分を手に入れました。
ところがわずか数ヵ月後に明治維新となり,武士の身分ははかなく消滅します。それでも士族としての身分は残りました。明治の新しい制度(華族・士族・平民・新平民)では,華族に次ぐものです。
則義は下級官吏を勤めるかたわら,内輪で金融業を始めます。同郷の出身者などを相手に,一時は自分の月給の数倍の金銭を貸し付けていたようです。
一葉というと,だれもが貧困生活を連想します。
ところが実際には,士族の娘として生まれ,少女時代は父親の羽振りもなかなかのもので,経済面での不自由はしていなかったのです。
ただ父親の高利貸しについては,一葉は少女らしい潔癖さで嫌っています。
「ただ利欲にはしれる浮よの人あさましく厭(いと)はしく・・」
という日記の一節は,父親に向けられた言葉でもあったでしょう。
興味深いのは,一葉の人生には,その父親の指向とよく似た面がみられることです。社会的地位(身分)の向上を望むだけでなく,実利(金銭)を手に入れることにも人一倍関心が強いのです。
それは今でいえば上昇指向ですが,当時の言葉でいう立身出世欲のほうが似合っています。
樋口家の家運が傾きはじめたのは,明治20年に父親が警視庁を退職した頃からでした。同じ年に,大蔵省出納局に勤務する長男の泉太郎が結核のために23歳の若さで亡くなり,一家に暗い影が落ちはじめます。
翌年になって樋口家では,まだ15歳にすぎない一葉を相続戸主にしました。
女性の戸主は江戸時代には珍しくありませんが,明治の士族階級ではごく少数でした。
さらに翌年,父の則義が事業に失敗し,心痛から体調をくずして亡くなります(結核との説もあります)。この決定的ともいえる事態によって,幼い一葉の双肩に一家の主としての責任が重くのしかかってきました。
当時,一葉は中島歌子の主宰する萩の舎(はぎのや)という私塾に通っていました。和歌の塾ですが,生徒の多くが華族令嬢たちで,上流社会の雰囲気の漂うサロン的な学校です。
ツテを頼って一葉を萩の舎に入れたのは,父の則義でした。「女には学問はいらない」という母の反対を押し切っての入門は,則義らしい指向の表われともいえます。
萩の舎での一葉は,抜きん出た優秀な生徒であり,中島歌子からも可愛がられました。
しかしその一方で,爵位をもつ権門名家の娘たちとの差異は明白でした。一葉が幼い頃から抱いてきた,士族の娘としてのわずかな矜持(誇り)は無残に打ち砕かれ,さらに経済状態においてもはっきりとしたコンプレックスを味わうことになったのです。
父譲りといえる一葉の立身出世指向には,かなり意識的な部分があります。
「かくて九つ斗(ばかり)の時よりは,我身の一生の,世の常にて終らむことなげかはしく,あはれ,くれ竹の一ふしぬけ出しがなとぞあけくれに願ひける」
のちの日記に,一葉はそう回想しています。
萩の舎という上流サロンに身を置きながら,一葉が口惜しさを感じていたことは十分に想像されます。
「くれ竹の一節でも」他人より抜きん出たいという必死な思いは,より現実的な解決法を求める行動へと一葉を駆り立てていきます。
一葉が小説を書こうと思い立ったのは,同門の先輩の田辺花圃(たなべかほ)が「藪の鶯」という小説を書き,33円の原稿料を手にしたことがきっかけでした。その当時,一葉の家の生活レベルならば月10円もあればまずまずの暮らしができたので,33円はかなりの大金です。
田辺花圃の成功で,小説が手っ取り早く金になりえることを一葉は知り,さっそく自分でも書きはじめたのです。 
■生活という名の劇場
明治23年,18歳のときに,一葉は最初の小説を書いています。その後,東京朝日新聞の記者として大衆小説を書いていた半井桃水(なからいとうすい)を訪ね,指導を受けるようになります。
やがて一葉は桃水を慕うようになり,自宅へと足しげく通うようになりました。桃水もまた同人誌を発行し,一葉に小説家としての活動の場を与えようとしました。
一葉の日記には,桃水との男女関係について,はっきりとは記されていません。
日記には一部欠落した部分が随所にあり,それは桃水にかんする記述個所に多いことが研究者によって指摘されています。一葉の死後,妹の邦子か誰かの手で破棄された可能性もあります。
日記にはあまり記されていませんが,一葉は桃水からしばしば生活費の援助を受けています。しかもそうした関係は,晩年まで断続的に続いていたようです。
一葉と桃水の交流は,あるとき突然に解消されます。二人の仲が萩の舎で噂になっていることを知り,一葉は動揺しました。師である中島歌子の勧めもあって,一方的に桃水との関係を絶ってしまったのです。 その見返りに田辺花圃の紹介で,「都の花」という文芸誌に作品発表の機会が与えられました。
この頃の一葉の原稿料は微々たるものでした。実際の生活は,母と妹邦子の針仕事と洗濯で支えられていました。
戸主である一葉は,強い責任を感じていたでしょう。小説で食べることを一時断念し,経済状態を立て直すために「実業」をはじめます。荒物や駄菓子などを商う小さな店を,下谷龍泉寺町に開いたのです。
吉原遊郭に近い下谷龍泉寺町は,それまで暮らした本郷菊坂とはまったく雰囲気の違う町でした。店は,下谷から吉原へと抜ける通り沿いの商店街にあり,隣が人力車夫たちの合宿所になっている二間長屋でした。
店の前の通りは,遊郭へ通う客たちの行き来や,とりわけ人力車の鉄輪の響きが深夜まで絶えません。ある晩,一葉が店前を通る人力車を数えたところ,10分間に75輛もあったそうです(日記「塵之中」)。
現在,一葉たちが店を開いた近くに,樋口一葉記念館があります。
慣れない荒物商売は結局うまくいかず,1年も経たずに店を閉める羽目におちいっています。
ただ,華やかな妓楼の建ち並ぶ遊郭と,その周辺に働く下町の人々の生活ぶりは,のちの一葉の小説に大きな影響を与えました。
「廻れば大門の見返り柳いと長けれど,お歯黒溝(どぶ)に燈火うつる三階の騒ぎも手に取る如く・・」
「たけくらべ」の冒頭に描写された吉原遊郭の光景は,一葉が日々眺めたものでもあったのです。
この頃,一葉は非常に奇妙な行動をみせています。
本郷に住む久佐賀義孝(くさかよしたか)という男をいきなり訪問し,借金を申し込んだのです。
久佐賀は得体の知れない人物で,米相場で大金を手にしたといわれる,いわゆる成金でした。
一葉の唐突な申し出に対し,久佐賀は妾になることを要求します。
一葉はそれを拒絶し,以後の交渉は途絶えたことになっています。
ところがその久佐賀からもある時期,何がしかの金を受け取っていたといわれます。
明治28年の日記では,久佐賀が一葉の家(丸山福山町)を訪ねてきて,夜遅くまで話し込んでいます。
そのおりにも一葉は,60円もの借金を申し込んでいます。
この大金は一説によれば,相場の資金を借りようとしたともいわれます。
もし借金できていたら,一葉の一世一代の大博打がみられたかもしれません。
一葉の日記には,久佐賀との関係もあまり記されていません。
執筆上のスポンサーを求めていたという解釈もありますが,一方で久佐賀のことを隠そうとしていた風もあります。
一葉が,半井桃水や久佐賀義孝からどのような形で,またどのような思いで援助を受けていたのかは,想像するほかありません。
一葉は多くの友人,知人から借金をくり返し,その返済に追われています。
桃水や久佐賀も,そのひとりだったのでしょうか。
一葉の年齢になれば,なんらかの男性関係があっても少しもおかしくはありません。
しかし一葉の場合,単純にそうした視点からだけでは,推し量れない多様な面があります。
明治という,女性にとって開放的とはいえない時代環境のなかで,一葉自身が巧みに隠したり,修飾したからにほかなりません。
手がかりは,日記よりむしろ作品のほうにあるように思えます。
それは「たけくらべ」の美登利と,「にごりえ」のお力の姿です。
「たけくらべ」の美登利は,大巻という遊女を姉にもつ活発でおきゃんな少女です。近所に住む正太という少年にとっては憧れの的であり,子供たちのあいだの女王的存在でもあります。
その美登利がある日(初潮)を境に,髪を島田に結い上げ,大人の女性として変化していく様は,少年期への別離の余韻をこめた小説の白眉ともいえます。
「しかも一言も直接的な言葉を使わず,これ以上正確に,美しく,女のさけ難い生理と,それ故にやがて受けねばならぬ女の運命の哀しさの予兆を,こうまで暗示的に詩的に描いてみせた作品があっただろうか」(瀬戸内寂聴「わたしの樋口一葉」)
酉の市のにぎわいを背景に,美登利はそれまでの日常と訣別し,姉と同じ道を歩むであろう宿命が暗示されています。
ここには女性の性,そして生というものを,﨟長けたといえるほどクールに見つめる一葉の視線が感じられます。
そのクールさがあったからこそ,この時代に女性の生理を真正面から描きえたのでしょう。
それはまた,我が身にも密着した性と生の宿命を,あえて突き放して見ることで核心をとらえようとする,一葉の冷徹さにも通じています。
一方,「にごりえ」のお力は,初対面の客の財布を取り上げ,仲間の女たちに分け与えてしまうような気風のある女です。
そのくせ自分では一銭もとりません。
一見,男を手玉にとるような女でありながら,自分の利には走らず,ひとり遠くを見つめているような魅力的な女性像が描かれています。ここにも性と生を見つめる,女のクールな視線があります。
ここにはまた,男たちから一時期にせよ援助を受けながら,それは自分のためではなく,家族を養うためだとする,他人にはいえない一葉の託された屈折した思いが見え隠れしているようにも感じられます。
かりに男性との関係があっても,一葉にとっては表立って恋とはいえない内面的な事情が秘されていたと思われます。
文壇に名が知られるにつれ,銘酒屋の建ち並ぶ丸山福山町の一角にある一葉の家には,「文学界」の若い同人たちが数多く訪れるようになります。
馬場孤蝶,
戸川秋骨,
島崎藤村,
上田敏,
川上眉山,
幸田露伴,
斎藤緑雨
といった人々です。
森鴎外にいたっては一葉を崇拝するあまり,葬儀のときに騎馬正装での参列を申し出て,家族から断られています。
一葉は彼らに囲まれ,ときにはご馳走をしたりして,楽しいひと時を過ごしています。
一葉の短い生涯で,もっとも華やかで充実した時期だったでしょう。
その姿は不思議なほど,正太の憧れであった美登利や,苦界にあっても男たちや仲間に慕われ,「姉さま風」に振る舞うお力と重なります。
そのお力に,自分と同じ頭痛という病気を与えたところに,一葉らしい面目と,たどり着いた境地がかいま見られます。
一葉は「たけくらべ」の少女美登利に「そうありたかった少女の姿」を,そして「にごりえ」のお力に「こうありたい大人の女性の姿」を,託したのではなかったでしょうか。
ただしそれは単純な理想像ではなく,肉体の苦しみ,生の空虚感に満ちた宿命的,あるいは悲劇的ものでした。
一葉なりの,女の個人史ともいえます。
美登利からお力へ,それは奇しくも一葉の頭痛の歴史とも符合しています。
もちろん頭痛は,一葉の生涯を覗く小さな穴にすぎません。しかし同時に,一葉の生涯を通底する神経軸のようなものでした。
一葉の女としての生々しさ・・その片鱗を,頭痛という肉体上の異変に予感させる。一葉はそれを心得たうえで,お力を創造し,その原点としての美登利を創造した・・そんなふうに思えてくるのです。
「にごりえ」「たけくらべ」「大つごもり」といった代表作のほとんどを,わずか1年余のあいだに書き残し,一葉は24歳の11月に兄と同じ結核で急逝しました。
彗星のようにはかない生涯ともいえます。が,一葉という女性は思われている以上に人間臭く,油断のできない,それだけ魅力的な存在でもあるのです。 
■頭痛という不思議な病気
明治26年の一葉の日記に,
「脳痛はなはだしく,終夜くるしみて胸間もゆるが如く,人生の浮沈人情の非情こもごも感じ来りて,くるほしき事いうべくも非ず(あらず)」とあります。
こうした苦しさは,実際に激しい頭痛持ちの人にしかわからないでしょう。頭痛の経験のない人は,「たかが頭痛でずいぶん大げさな」と感じるかもしれません。
頭痛は,周囲の理解が得られにくい不思議な病気です。胃痛や腹痛だと,周囲も「どうしたの?」と心配してくれますが,頭痛に対しては「ああ,そう」といった程度の反応しか示しません。
しかし頭痛は,15歳以上の約40%が悩んでる病気です。患者数にして3000万人以上ともいわれます。
これほど苦しんでいる人が多いにもかかわらず,なぜか軽視されてきたのです。
最近になって,頭痛のメカニズムが少しずつ解明され,また有効な治療薬がいくつか開発されるようになりました。その影響もあって「頭痛外来」を設置して専門医をおく病院も増え,ようやく本格的な治療が始まったといえます。
頭痛の大半を占めるのは,原因のはっきりしない慢性頭痛です。慢性頭痛には大別すると,「片頭痛」と「緊張型頭痛」があります。
片頭痛は,ズキンズキンという強い痛みがして,吐き気がともなうことも少なくありません。
光や音にも過敏になり,テレビを観ているのもつらい状態にもなります。
片頭痛といいますが,実際には頭の両側に痛みが起こる人もたくさんいます。
男女比でいうと,10歳くらいまでは差がないのに,15歳以上では女性のほうが3-4倍にもなります。このことから,女性ホルモンがなんらかの形で関与しているといわれます。
一葉の日記には,母親の多喜が「血の道」でしばしば寝込んだことが記されています。一葉自身も同じ症状で,朝遅くまで寝込んでいたこともあります。
母娘に共通して,生理不順や生理痛があったのでしょう。
ただ最近の研究では,片頭痛は女性ホルモンの変化に加えて,なんらかのストレスを受けたときに起こりやすいことがわかってきました。 ストレスを受けると,脳の血管をとりまく三叉神経が刺激を受け,セロトニンという神経伝達物質が働いて血管を収縮させます。
その後セロトニンが放出されるさい,脳の血管が拡張するとその周辺が炎症を起こし,それが痛み(頭痛)となるのです。
片頭痛の引きがねとなるストレスは,人によって違います。寝不足や寝すぎ,人ごみ,寒さや暑さ,室内での軽い酸欠,空腹,食べ物や飲み物など,さまざまです。
飲食物では,チョコレートや赤ワイン,匂いの強いチーズ,化学調味料などによって頭痛を起こす人が多いようです。
また仕事などで忙しいときより,仕事が終わってホッとした翌日に起こりやすい傾向もみられます。 
■片頭痛と緊張型頭痛との違い
もうひとつの緊張型頭痛は,首や肩のこりをともなう頭痛です。頭が締め付けられるような痛みや,重い感じがすると訴える人が多くみられます。
一般的には寝込むほどひどい症状ではありませんが,毎日のように起こる人,めまいをともなう人もいます。
男性にも多く,男女比ではほとんど違いはありません。
緊張型頭痛は脳とは関係なく,頭・首・肩の筋肉が緊張から疲労し,収縮して血流が悪化することから起こります。
頭と首と肩の筋肉(後頭筋群や側頭筋群,僧帽筋群など)はつながっているため,頭痛だけでなく,首や肩のこりが一緒に起こります。また頭の筋肉が収縮するため,締め付けられるような痛みとなります。
筋肉の緊張は,長時間同じ姿勢をつづけていると起こりやすくなります。
そのためパソコンやデスクワークを長時間つづける人に多くみられます。
精神的なストレスを受けているときも,緊張型頭痛が起こりやすくなります。
人間関係や仕事上の悩みなどをかかえているときです。
たとえば苦手な人のことを考えたり,当人に会ったりすると,無意識に体が堅くなります。
そうした状態が長くつづくと思えばいいでしょう。
精神的ストレスを受けると自律神経が刺激され,血管が収縮します。それにともなって筋肉も緊張し,収縮するため,頭痛が起こります。
一葉の場合でいえば,戸主としてなんとか生活の糧を得なければならないという思いや,人に頭を下げて借金することは,大きな重圧となっていたでしょう。早く小説で身を立てたいという強い気持ちも,プレッシャーになっていたはずです。
小説を書くこと自体に加え,こうした精神面のストレスが頭痛の原因になっていた可能性は十分にあります。
ところで片頭痛と緊張型頭痛は,同じ慢性頭痛とはいっても,治療法はまったく違います。
たとえば片頭痛は血管の拡張から起こるため,一般的には頭を冷やすほうが治りやすくなります。ところが緊張型頭痛は筋肉の緊張と血流の悪化が原因なので,患部を温めてリラックスさせたほうがよくなる傾向があります。
頭痛が起こったとき,シャワーを浴びたり,お風呂に入る人も多いでしょう。
緊張型頭痛の場合は,シャワーの刺激やお湯の温かさで筋肉がほぐれ,血行もよくなるので,いい方法だといえます。
ところが片頭痛では,血管の拡張をうながし,症状がかえってひどくなってしまうこともあります。
一葉は頭痛のとき,寝るという方法をよくとっています。
片頭痛が起こると外界の刺激(光や音)に過敏になるので,寝て刺激をさけるのもいい方法です。
しかし緊張型頭痛では寝るよりも,むしろストレッチなどの運動によって筋肉の緊張をほぐしたり,ウォーキングや散歩で気分転換を図るほうがおさまりやすい傾向があります。
頭痛が起こると,まず市販の解熱鎮痛薬を使う人が多いはずです。
しかし病院では,頭痛のタイプによって違う薬が処方されます。
片頭痛の場合には,血管の拡張や炎症を抑える薬を使います。
それに対して緊張型頭痛では,緊張をほぐし,体や心のストレスを緩和するため,筋弛緩薬や抗不安薬,抗うつ薬などを使います。
片頭痛と緊張型頭痛では,これほど違いがあります。
頭痛がなかなか治りにくいのは,じつは片頭痛と緊張型頭痛を併発している人が少なくないからです。
一葉も,そのひとりだったと思われます。
寝込むほどの激しい症状に加えて,一葉にはひどい肩こりもあったからです。 
■一葉の日記に頭痛のきっかけを探る
病院では最近,患者自身に「頭痛日記(日誌)」をつけてもらうように指導しているところが増えています。
頭痛日記とは,頭痛が起きたときに,その日時,症状,対処の仕方などを記録しておくものです。
受診のとき頭痛日記を医師にみせることで,頭痛のタイプや程度を知るための手がかりとなります。
頭痛日記には,できれば前日の出来事や食べ物,また天候の変化なども記録しておくほうがいいでしょう。
とくに片頭痛の場合には,さきほど書いたように,自分でも気がつかないことが頭痛の引きがねとなっていることがあります。
また緊張型頭痛でも,知らずに精神的なストレスを受けていることがあります。
日記をつけることで,それを自覚できるようになるからです。
一葉は自分の日記にしばしば頭痛のことを記していますが,その前後の記述を読むと,非常に興味深いことに気づきます。
要点だけを抜粋してみます。
<明治25年>
 2月22日 
「雨天寒し」,
「風邪にやあらん,頭痛たへがたければ此夜は早くふしたり」
 7月23日 
「一同帰宅の後頭悩はげしく暇を乞ひて灸治に行んとす」,
「途中大雷雨」
 8月24日 
「晴天ながら折々に鳴神の音するはやがてここにも降らんとすらん」,
「おのれも今宵はかしらいといたくなやめば早う臥たり」
 8月29日 
「晴天時々雷鳴す」,
「頭痛いとはげしければ暫時ひる寝」
<明治26年>
 2月6日 
「空はくもれり,又雨なるべし」,
「かしらはただいたみに痛みて何事の思慮もみなきえたり」
 4月25日 
「六時過るより空ただくらく成に成て雷雨昨夜にかはらず」,
「かしらただなやみになやみて雷雨のおそろしきも何も耳に入らず」
 5月21日 「雨降る」,「これより脳痛はなはだしく終夜くるしみて胸間もゆるが如く」
これらの記述から,一葉の頭痛は天候の影響を受けて起こりやすいことがわかります。とりわけ雷鳴・雷雨のような,天候の変わり目,低気圧の接近が,きっかけとして目立っています。
この傾向は,一葉が下谷龍泉寺町に店を開いてからもみられます。
8月20日からは千束神社の大祭で,商いも忙しく過ごしていますが,その間,幾度か急な雨に見舞われています。
その最後に一葉は,「此処(このところ)四五日事のせわしさなみなみならざるが上に脳のなやみつよくして寝たる日もあり」と記しています。
さらに9月1日にも,
「例之脳病起りてしばしもたつことあたはず終日ふしたり」,
「午後より雷雨おびただし」
とあります。
天候の悪化や低気圧の接近が頭痛の引きがねとなることは,けっして珍しくはありません。
原因ははっきりしませんが,憂うつな気分になりやすいことに加え,気圧の変化そのものが脳血管や血圧になんらかの刺激を与えている可能性もあります。
一葉は明らかに,天候の変化の影響を受けやすい女性だったといえます。
一葉の日記からはそれ以外にも,萩の舎の会席などで大勢に会ったあと,借金の返済が迫っているとき,親戚のごたごたに巻き込まれて憤慨したとき,祭りで商いが忙しかったときなどにも,頭痛が起こりやすいことがわかります。
気ぜわしさが,頭痛のもうひとつのきっかけになっていたようです。
一葉自身は気づいていなかったでしょうが,頭痛日記によって自分なりの頭痛のきっかけがわかれば,対策をとることができます。
今日(明日)は頭痛が起こりそうだと思えば,睡眠(寝不足,寝すぎ)に気をつけたり,ストレス解消(音楽や運動,趣味など)で気分転換を図ったりできます。かりに人間関係や食べ物が頭痛のきっかけなら,できるだけそれを避ける方法もとれます。
慢性頭痛に悩む人にとって,頭痛日記は予防のための大切な情報源なのです。
一葉の日記は,その良い例ともいえます。 
 
雑学の世界
http://www.geocities.jp/widetown/japan_den/japan_den042.htm









樋口一葉の生涯
樋口一葉
明治5年(1872)~明治29年(1896)
父が東京府の下級官吏をしていたため、府構内長屋で生まれ、生涯東京を離れなかったといわれる。
11歳で小学校中退、萩の舎に入門して和歌を学ぶ。
萩の舎は中島歌子の主宰する名門歌塾で、余りにも身分ちがいに一葉はわが身を知らされる(入門当初は樋口家も裕福だったが、華族の令嬢・貴婦人とはおのずからちがう)。
当時の日記には、
「家は貧に身はつたなし」
と書いている。
長兄につづく父の死で、女戸主となったのは17歳。
その頃、許婚だった渋谷三郎に婚約破棄され、大いに傷つく。
小説家を志したのは、母と妹を養うためであった。
妹の友人の紹介で朝日新聞小説記者の半井桃水を訪問。
それは運命的な出会いであった。
桃水に習作をみてもらいながら図書館に通って勉強するが、なかなか売れるような小説は書けない。
そのうち二人の仲が萩の舎で評判になり、歌子に絶交を迫られる。
この後、姉弟子の三宅花圃の紹介で「都の花」に『うもれ木』を発表。
『たけくらべ』を発表する2年前のことである。
貧乏底をつき龍泉寺町で荒物屋をひらいた頃から、「文学界」の仲間との交流がはじまる。
創作に苦しむ一方で、生活にいきづまった一葉は、占い師の久佐賀義孝や二十二宮人丸を訪ねて金銭的援助を乞う。
この頃の一葉は今でもナゾとされる。
星野天知、馬場孤蝶、戸川秋骨、平田禿木らがしげく出入りするなか、一葉は
『ゆく雲』『にごりえ』『十三夜』
など意欲的に執筆。
一葉「奇跡の十四ヶ月」といわれる。
「文学界」に連載した『たけくらべ』が森鴎外や幸田露伴の目に止まって評判になったのは、「文芸倶楽部」という雑誌に一括掲載されてから。
死ぬ数ヶ月前のことである。
名声は一挙にあがったが、お金とは無縁であった。
しかも借金に借金を重ねる生活が一葉をすね者にし、悲運のまま世を去る。24歳。
生涯を通じての恋人は半井桃水であったが、晩年交わった斉藤緑雨は一葉日記の棹尾(とうび)を飾る人である。

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・ 一葉の故郷
一葉の故郷は甲州中萩原村(現・山梨県塩山市)。
私が訪ねたのは2006/6月のこと、シーズンオフで観光客は一人もいなかった。
駅前でもらった案内図をみて路線バスに乗り、目的地で降りたが誰もいない。
ようやく農家のおばあちゃんを見つけて慈雲寺を教えてもらった。
かなりの上り坂で、周囲はブドウと桃畑のみ、花の時期には桃源郷そのものにちがいない。
慈雲寺はこじんまりとしたお寺さんで、このところの一葉ブームで訪れる人も多いのだろう、手入れがゆき届いてとても気持ちがいい。一葉碑の前で一人お茶を飲み、幸田露伴によるという碑文をながめ、写真を撮らせてもらい、充分一葉の世界に浸ることができた。
慈雲寺には樹齢300年以上にもなるという枝垂れ桜がある(看板にはイトザクラの文字)。桃色の花が枝いっぱいに咲いたら、天が開いたような明るさで、さぞかし見事であろう。
慈雲寺前の駐車場がにぎやかなので、地元の青年たちがお祭りの準備でもしているのかなと思ったら、TVドラマの撮影だっ た。
よくTVでみる女優さんとばったり出くわして、なぜか24歳の娘盛りで亡くなった一葉とダブってしまったのだ(ドラマは一葉とは全然関係ないものだったけど)。
慈雲寺は一葉の父義則(幼名・大吉)母滝子(幼名・あやめ)が学んでいた寺で、二人が駆け落ちして江戸に出たのは1957年(安政4)のこと。
それにしても交通手段のない時代、峠をいくつも越えて江戸まで出る当時の人に脱帽!
ほんとに昔の人は健脚であった。
現在では電車を乗り継いで半日でいける距離だけど、それでもトンネルを抜けるたびに山深くなり、都会からは隔絶の感なのである。

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慈雲寺にある一葉碑



・ 一葉のなかに流れる血脈
幸田露伴の撰文による。
境内には父母の恩人でもある真下専之丞の碑が並んで立っている。
大吉、あやめが出奔した時、あやめは妊娠8ヶ月。
御坂峠から足柄峠を越えて湘南に出る比較的ゆるゆるした旅で、7日目に江戸の入った。
二人は、村の出世頭であった真下専之丞を目指していた。
(中里介山の『大菩薩峠』には大吉とあやめが大菩薩峠を通ったようにフィクションで書いてあるが、実際には通っていない)。
父は番所(ばんしょ)調所の勤番筆頭であった専之丞の下働きをし、母は生まれたばかりの長女を預けて、旗本稲葉家の乳母に出るという共働き。
二人が専之丞の世話で士分の株を購ったのは、出奔から10年目のこと。
この立身出世欲と目的を得るまでの忍耐づよさは、まちがいなく一葉に引き継がれている。
しかしその3ヶ月後には徳川慶喜が大政奉還して幕府は瓦解。
幸い父は身分が低かったために東京府の下級官吏に横すべりすることができたが、よほど悔しかったのだろう。
この農民から士族に成り上がったプライドを捨てきれず、それが娘の一葉を苦しめ、一生しばることになる。
専之丞亡き後、父則義が甲州の人たちの面倒をみた。
保証人や就職、金の貸し借りなど頼りになるのは同郷人で、甲州弁がいきかい、まるで甲州の村ができているようなものであったという。
一葉の日記に「親戚めきたるもの」と書いてあるのはそうした人たちで、戸主となってからは何かと相談にのってくれる存在であった。
しかし、最後になってお金を貸してくれない彼らを、一葉は悪しざまに罵っている。
父母の故郷を一度も訪れたことがないといわれている一葉だが、このように彼女のなかに流れるものは、まぎれもなく甲州の血脈であった。
『ゆく雲』の冒頭に、
 「わが養家は大藤村の中萩原とて、見わたす限りは天目山、大菩薩峠
 の山々峰々垣をつくりて……魚といひては甲府まで五里の道を取りに
 やりて、やうやう鮪(まぐろ)の刺身が口に入る位」
と書いているのは、まさにその光景である。

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